ヒメゴト

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Can I give you something?

 彼女と交際していたのは、半年にも満たなかったと思う。なんとなく始まってなんとなく終わってしまった恋、あるいはそれ以下のなんでもないようなもの だったのかもしれない。そう思うと僕は彼女にとても申し訳ない気持ちになってしまう。半年に満たないとはいえ、彼女が僕に割いていた時間以上の物を、僕は 彼女にあげられていただろうか、それどころか、彼女にとって大切ななにかを奪ってしまったのではないか。それは今となっては目の前にいる彼女に聞けたもの ではないし、聞いたところで何になるというのか。ただただ、気を使わせるだけだとわかってはいた。けれど我慢ができなかったのだ。自分を抑えることが。少 しだけ、話したいことがあるんだけれど、という僕の声に応じて彼女は首を縦に振った。周りが少しだけ、怪訝そうな顔をしたけれど、あまり周りを気にしてい ては多分彼女とこうやって話す機会は一生無いだろうから、我慢するしかない。
 コンクリート造りの色気のない階段を降りて、適当な場所を探す。どこか行きたいところはあるか、と彼女に尋ねると、あの喫茶店がいいな、と小さな声で返 事があった。あそこか、とひとりごちると左側へと進んでいく。その後ろを彼女は少し早足についてきた。こういうところはあまり変わらないのだなぁ、と一年 前を思い出す。彼女は身長がそれなりにあるわりには歩幅が小さく、ゆっくりと歩いていても自分の後ろをせわしなく動き回っていた。それは今でも変わらない ようで、かなりゆっくり歩いているつもりなのに、彼女は少し早足だった。少し進んでは後ろを見返し、彼女が着いてこれているかを確認する。歩幅すらも合わ せられなかったから、あっという間にダメになってしまったのだろうか、と考えこんでしまうが、すぐにそれはない、と思い直す。多分、そこは根本的な問題で は無いのだ。多分それ以前の、付き合う、という上で必要な感情がお互いに育っていなかっただけで。
 なんとなく会話がしづらくて、お互いに黙ったまま枯れ木並木の道を進む。春には桜で満開になってとても美しいのだが、この時期は枯れ葉がうざったらしい し、これからくる寒さを予兆しているようで、嫌いだ。ガサガサっと足音を立てながら正門の前までたどり着くと、彼女に走り寄って来る村山が突然現れた。
「あれっ、矢島と夏菜子さんじゃん、どうしたのさー?」
 そう言って村山は彼女に抱きついてきた。ちょ、ちょっと、と少し困った顔で笑う彼女が、こちらの方に救いを求めるような視線をのぞかせてきた。はいは い、困っているだろう、と村山を彼女から引き離して軽く頭を小突いてやる。なにをすんのよ、と少し不機嫌になった彼女は、それでも始めに話しかけてきた台 詞を引き継いで、で、どこに行くの? と再び問いかけてきた。ちょっと話したいことがあってあそこに、と彼女は僕ですら流石にこれ以上離れていては聞こえ ないような声で返した。そう聞いた村山は彼女、僕、彼女と視線を動かした後に勝手に納得した様子を見せると、後ろずさりでゆっくりと僕達から離れていく。
「なんだかわからないけど、気をつけてねっ!」
 そう叫ぶと村山は走って敷地の中へと消えていった。振り返る瞬間にほんのすこしだけ苦しそうな、なにか言いたそうな顔をしていたのは、多分僕の気のせいではない。村山は彼女と僕の関係についてほとんどを知っている唯一の人物だから。
「ごめん」
 沙耶ちゃんが、と彼女が言ったのは僕が村山に心の中で謝ったのと同時だったから、僕の心でも読まれているのか、と一瞬疑ってしまった。驚いた表情を出さ ないように、大丈夫、と彼女に返すと、そっか、でもごめんね、ありがとう。と何にありがとうなのかよくわからない事を言ったので、とりあえずどういたしま して、と返しておく。
 その後は他の知り合いに会うことも、それどころか会話すらもなく、目的地へとたどり着いた。入り口の階段が急で狭いその店で彼女が転んでしまわないよう に手を差し伸べたところで失敗したことに気づいた。手を差し伸べるのはないだろう、もう付き合っているわけでもないのに。気をつけて、という一言でよかっ た。染み付いてしまった癖が今も抜けていないことに苦笑いをしつつ、一度差し出した手を引っ込めるのもおかしな話なので、そのまま彼女にその手は向けてお いた。彼女はすこしだけあっ、という顔をして、ほんのすこしだけ迷ったようだった。けれどすぐに僕の手をとってゆっくりと階段を登っていく。トン、トン、 一つの段にいちいち両足をのせて、階段をあがる彼女のリズムにもはじめは合わせることもできなかったことを思い出す。初めて見た時には少しイライラしたも のだったが、付き合ってからはその仕草が逆に可愛らしく見えて、わざとこのお店にくるように仕向けていた。唯一、彼女と手を繋いでいられる時間でもあった から。
 いらっしゃいませ、と気だるげにいう店主の横を通り奥からニ番目の席に腰を掛けた。彼女はふぅ、息をついて僕の向かいの席に腰を掛ける。メニューを渡そ うとすると、首を傾げて僕の顔をのぞき込んだ。どうして? 知ってるでしょう? とでも言いたげな顔だ。彼女の好みが僕とこの店に来ていた頃と変わってい ればよかったという思いと、むしろ変わっていなくてよかった、という思いが同時に脳みそを占めて煩わしい。もしかしたら好みが変わっているかな、と思って と彼女に伝えると、そんなことないよ、と彼女は笑い、更にこう続ける。あなたと一緒にいた頃から、私は何も変わっていないよ、と。その言葉にわずかな喜び と大きな罪悪感を覚えた僕は彼女の顔を見るのが怖くて店主に声をかけた。頼みなれた注文をすると、店主は何かを思い出したような顔をして厨房へと引っ込ん でいった。これでも常連だったのだ、きっと覚えていたのだろう。僕だって覚えているのだ、彼だってそうに違いない。
 改めて、彼女の方に向き直ると、彼女は先ほどと変わらない微笑みを浮かべている。何が一体楽しいのだろう。元交際相手との食事は、はたして笑みを浮かべ るほどの出来事であろうか。そんな風に考えこんでいると、彼女が口を開いた。このお店、来るの久しぶり、と内装をぐるぐると見回している。なんとなく違和 感を覚えた僕は彼女に最後に来たのはいつなのかを尋ねる。君と最後にこの店に来た日が最後。彼女は忙しなげに店内を見回しながら、なんでもないようにそう 答えた。
 そこで、改めて僕は彼女にとんでもないことをしてしまったのだと自覚する。僕が勢いでやってしまったことで、彼女の何かを奪ってしまったのだ、と。やは り、謝らなければならない。そう思い直す。そうして彼女の名前を口に出そうとしたところで、コーヒーを持ってきた店主が僕の視界に割り込んできた。なんと いうタイミングだ、と若干店主に逆恨みをすると、コーヒー以外の何かがテーブルの上に置かれる。これはなんだ、という顔をする前に、店主が低い声で、サー ビスと呟いた。続いて、チョコレート、来てくれるの久しぶりでしょ、だから、と。やはり覚えていたのだ。しかしなんとなく余計なことを。そうしてもう一度 厨房へ引っ込んだ店主は、ゴソゴソと音をたてている。さっき注文したハンバーガーでも作っているのだろう。
 僕が少し目を離した隙に彼女はコーヒーに口をつけていた。猫舌のくせにホットコーヒーを飲む彼女はコップのふちにくちばしを作って、少しずつ少しずつ、 舐めるように飲んでいる。僕は机の上に置かれた一口大のチョコレートを口に含んでからコーヒーを口に運ぶ。苦くて、甘い。当然だ。
 ひとまず、注文が出揃うまでは話をするのはやめておこうと思い、彼女がコーヒーを飲む姿をじっと見つめる。何度も何度も息を吹きかけ、口先をコーヒーに つけた途端、あつっと小さな声でつぶやく彼女は、なるほど確かにあの頃と数分変わるところはない。強いて言えば、髪があの頃より長いくらいだろうか。それ ぐらい動きに変化はない。あの頃から何も変わっていないように。
 そうやってひとしきり彼女の動きを眺めていると、先ほどのように店主がハンバーガーを運んできた。今日は暇だから、ごゆっくり。立ち去るときに静かにそう言ってまた、定位置へと戻っていく。
 彼女は店主が運んだハンバーガーにお熱になっていた。小動物のようにもふもふ、もふもふ、とゆっくりゆっくり、ハンバーガーを削っていく。少し大きめの 三日月になるまで彼女はそれを堪能し、もう一度コーヒーを飲んで満足そうに息をはいた。そして僕のほうにハンバーガーをぐっ、と押し出してくる。昔の僕で あれば、それをすぐに手にして熱いうちにそれを口にしていただろう。でも、今日の僕はあの頃の僕は違うのだ。だから、言葉を発しようとした。でも、そこで 彼女はまたさっきのように首を傾げるのだ。食べないの、と。逡巡があった後、結局昔のようにハンバーガーに手を伸ばす。彼女よりも豪快に、大口を開けて、 三倍以上の速度でそれを片付けていく。そうして、それがなくなった頃には、彼女はコーヒーを飲み終えている。
 なんというか、色々とまずいと思った。何も変わらなすぎるのだ。そして、彼女がそうしている意図が全くわからないのだ。なぜ、そうしているのか。僕への恨みなのか。
 で、謡君。話したいことってなにかな。
 そうして混乱しているうちに彼女の声が僕の脳に届く。そうだ、僕は彼女に謝らなくてはならないのだ。でも、なんだか言えなくて僕は色々な物を飲み込んで黙りこんでしまう。彼女は焦らないでいいから、と僕に言って、僕の顔を見つめ続ける。言わなくては、ならないのだ。
 始めになんと言えばいいのか、そう考えているうちにも時計の針は進んでいくし、彼女の時間を奪っていく。もうただでさえ、時間を奪っていい関係ではない のに、僕は彼女の時間を浪費していく。そのことに焦燥感を覚え、もう、とにかく、言葉にするしかなかった。支離滅裂でも言わなければならなかったのだ。
「あの、さ。僕たちは付き合っていたじゃないですか」
 そうやって僕は話し始める。僕がずっと溜め込んでいたことを。
「それで、謝らなくちゃいけないな、と思って。今日は来てもらったんだ」彼女は少し怪訝そうな顔で頷いて、先を促してくる。
「その、なんというか、僕が間違いなく悪いんだけど。君の気持ちがはっきりしない状態で、付き合ってしまったんだなぁ、と思って。それが謝りたかったんだ。
 僕が勝手に告白して、君から振られて別れてしまったけれど、それがずっと気がかりで。色々とやりづらくしてしまったのかな、と考えこんでしまって。この 喫茶店だってお気に入りだって言ってたはずなのに、あれ以来来ていないって言ったから。君の気持ちがはっきりしてから付き合っていたら、こんなふうに君を 中途半端に縛ったり、しなかったのかなって」
 ひとまず、僕はそこで言葉をきる。必死になって見れなかった彼女の顔を見ると、先ほどとあまり表情は変わっていない。だから、言い切らないといけないのだ。
「それで、僕のことが好きかわからない、君の時間を奪ってしまったんじゃないか。僕のことか好きかわからない、君の居場所を奪ってしまったんじゃないか。 それがとてもつらくて、謝りたかったんだ。君に何も与えることができなくて、君から奪っていくだけだったんじゃなかったかったって、思って」
 それ以上、もう言葉に出来なかった。感情が浮き上がっては、沈んでいき、何が正解であるのかわからない。ただただ、下を向いて、溢れてきそうな何かに耐えていた。そうして、ほんの少しの時間が経って、彼女は僕にこう言った。
「あのね、謡君。正直私、何を言っているか、わからないんだ。君が」
 上手くまとめるから、少しだけ待ってね、と彼女は考えこんで、そうして、僕に向けて言葉を発する。ギリギリ僕に届くくらいの小さな声で。
「あのね、多分謡君が言ってるのは、私が君と付き合って色々後悔してる? ってことでいいんだよね?」
 僕は首肯する。端的に言えば多分そういうことなのかもしれない。なんとなく、違う気はするのだけれど、他にうまい言い方も思いつかないので彼女に先を促した。
「うん、そういうことなら、そんなことは全然ありません。むしろ、君と付き合って、本当によかったなって、そう思ってるから」
 不覚にもその言葉に胸は踊ってしまった。彼女から、その言葉を聞けたことに僕の心の重荷はうるさいくらいの音をたてて崩壊していく。そうして、半分くらい泣きそうな僕に、彼女はこう続ける。
「あのね、知ってると思うけど、私って友達があんまりいなくって、いつもの場所、とか、お決まり? っていうのかな、そういうのに憧れてたんだよね。で、 謡君と付き合って。この喫茶店だってそうでしょ? 入ってくるときも、何を注文するかも、何も言わなくてもわかってる。そんな関係ってすごい素敵なんだ な、って思ったの。私が君のこと、好きなのか、わかんないって謡君いったよね。それも、もうなんとなくこたえがでてるんだ」
 そこで彼女は言葉を切って、ごめん、もらうね、と言って僕のコーヒーを一口すすった。もしかしたら彼女がこれほど長く話すのを聞くのは初めてかもしれない。彼女は静かな人だったから。
「で、ね。さっき私の居場所とか、時間を奪ったんじゃないかって、言っていたけど、それは多分正解だと思う」
 そう彼女が言うのを聞いて先ほどなくなったと思っていた重荷がまた、僕の上に降り積もっていく。でも、それは全くの気のせいだった、ということが続いた彼女の言葉で判明する。
「でも、ね。多分それは謡君の言っているような意味じゃないんじゃないかと、思うんだ。君と別れてしまってから、何度か、この店にも来ようかな、とも思っ たんだけど、でも、なんというか、勿体無くて。せっかく謡君と付き合って、そういうふうになった場所とか、そういうものを他の人で上書きしたくない なぁ、って思ったの。それでね、こういうふうに思うのは、多分……」
 と、彼女はそう言い淀んで、目を頭上に向けて泳がせている。思わず声を出して笑ってしまう。もう、なに急に笑って! とさっきより、大きな声を出して彼女も笑う。その姿をみて、僕はただの考えすぎだったんだ、と思った。
 確かに、僕は彼女の何かを奪ってしまった。時間も奪ってしまった。でも、それは多分恋愛関係、という関係性の中ではある程度許容されることで。その奪っ てしまったもの以上に相手に何かを与えることが出来るのが、そういう関係の特権なのだろう、と僕は久しぶりに見る彼女の笑顔を見つめて思う。だから、僕が これから言うべき言葉は決まっているのだ。
「あのさ、夏菜子。来週のこの時間ってあいてる?」



「すっかり暗くなっちゃったね」
 僕の右側を歩く夏菜子はそう言った。右手には彼女の体温が伝わってくる。帰りのあの急な階段からここまでずっとそれは続いている。
「あのさ、謡君」
「何?」
「これからも、よろしくね?」
「うん、こちらこそ、よろしく」
 そうして、僕の右手を握る力が少しだけ強くなった。多分こうやって帰ることもいつの間にか、当たり前になっていくのだろう。そうやって彼女の何かを奪って、その代わりに何かを渡していく。それでいいじゃないか。僕は夏菜子の手を握り返した。
 すきだよ、とどこともなくつぶやく。
 わたしも、僕に聞こえるか聞こえないかでギリギリの声でそう返してくる彼女をとても愛おしく思った。
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