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第一章

 空中国ラジーニャはその名の通り空中に浮かんでいる。詳しくはよく知られていないが、反重力、という技術が用いられているらしい。しかしてその構造はそれを浮かべている技術と対して非常に単純なものである。中央にセントラルと呼ばれる周りの島より一回り大きな特権階級の住む島がある。それを取り囲むように北にノウス、東にイースト、南にサウス、西にウエストと呼ばれる島があるのだ。
 それぞれの島では地域によっていくつかの商業地帯、農業地帯といった目的にわかれた地域区分が行われ、人々はそれぞれの生業を行っている。そしてその生業や目的に適した居住地帯、即ち、都市、町あるいは村に住まい日々を生きているのである。
 さてそんな空中国ラジーニャのサウスのブルネリアという町でアンジェは途方にくれていた。金がないわけではない。住む場所がないわけでもない。仕事がないわけでもない。事実、彼女は家を飛び出す際にある程度の蓄えは持っていたし、幸いにもすぐに部屋を借りることが出来た。ましてや演奏者を生業とする彼女に仕事の心配などあろうはずもなかった。だがしかし、彼女はそれらのようなことを心配するはずはない。そんなことを心配する必要がある育ちではないからだ。
 だから彼女は別の理由で途方にくれていた。
 彼女には調律者が必要だったのである。
 彼女の楽器を作成し、更には彼女の速度を上げるための楽器の改良、レース中のナビゲート、調整までも行う調律者が。
「お母さん……」
 彼女はそうつぶやき、今まで寝転んでいたベッドから体を起こすと洗面所に向かう。そこにある大きな鏡は彼女の風貌を映し出している。腰の辺りまである白髪、翡翠色の大きな瞳、その年齢の女性としては高い身長、一般的にスタイルのよい、と言って差し支えないものである(多少物足りない部分もあるのだが)。また、顔立ちも整っていて、町を歩けば周りの男は彼女に視線を向けるのである。さて、そんな整った顔に冷水を叩きつけると寝起きの少しぼんやりした頭はどこか彼方へ飛んでいくようである。
 そうして今日も彼女は調律者を探すために町へと繰り出すのだった。



 ブルネリアという町は商業で栄えている。大規模農業で作られたコーヒー豆、茶葉、カカオ豆といた作物が主な商品で、そのほかにも他の島から集められた作物や製品も活発に取引されている。そうやって物が集まる場所には人も集まる。人が集まる場所には情報も集まる。そう思いアンジェはこの町まで足を運んだのだが。
「やっぱりダメね……」
 彼女はここ最近常連となっている食事屋の椅子に腰掛け、そうつぶやいた。朝起きて声をかけてある情報屋をいくつかは巡っては見たものの、どこも芳しい返事がくることはなく、彼女はこうしてため息をつくのだった。もうここについてから一月と半分が過ぎ去ろうとしているのに、彼女が求めている情報は手に入らないのである。ため息が出るのも致し方ないものであろう。
「また別の土地に行くしかないのかしら」
 続けて彼女が誰ともなくつぶやくと目の前に料理を持った黒髪のウエイトレスがやってきた。
「どうしたの、アンジェ? そんな顔をして。せっかくの綺麗なお顔が台無しよ、何か悩み? もしかして、恋? 恋なの? 恋なのね!」
 そうやって声をかけてくるのはこの店のウエイトレスのリビリアであった。アンジェは自分勝手な展開に苦笑しながら返事をする。
「違うわよ、リビリア。まぁ、人を待ち焦がれているって言うのは間違いじゃないけど、別に想い人でもなんでもないわよ」
「まぁ、失礼ね、そんなの百も承知の上よ? このリビリアさんの茶目っ気に決まっているじゃない」
 そういうと、二人は顔を見合わせて笑う。リビリアは初めてアンジェがこの町に来たときに色々世話をしてくれた、いわば恩人なのである。しかし彼女はアンジェが礼をしようとすると、「気にしないでよ、あっ、どうしてもって言うなら私の働いている店に来て。私、アンジェともっと話したいし!」そう言って店の住所を手渡して行ってしまったのだ。
 その後アンジェがリビリアの勤めている店を訪ね、彼女たちは友人となったのである。黒髪の乙女と白髪の乙女ははしばらくの間他愛のない話に花を咲かせていたが、しばらくするとリビリアは「じゃ、そろそろお仕事戻らなくちゃ」と言ってキッチンへと小走りで戻っていった。
 アンジェはそれを見届けるとポケットから情報端末を取り出し、ブックマークから掲示板に書き込んだものへの返事がないかを確認する。しかし昨日の夜に確認した時点から書き込みが増えている様子はなかった。彼女はまたため息をつくと、店の出口へと向かう。そろそろ昼時で忙しくなる時間である。長居するのも好まれたことではないだろう。
 支払いを済ませ、彼女はブルネリアの町を歩く。いつもなら店を出た後は自分の部屋に戻って楽器、つまりバイオリンの練習をするのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。
『良き演奏者になるためには、良き調律者、良き鍛錬、良き楽器、そしてたまの休息が必要である』
 昔彼女が母から聞いたその言葉に従って、その日を休息に当てることにしたのである。
  街に出て、石畳をコツコツと音を鳴らしながら歩く。この街のメインの一つであるこの通りはちょうど昼時だからか、道には弁当売りや客引きの声、勤め人の男性、女性の声が入り混じり、にぎやかな活気に満ちている。そのメイン通りを直進して、石造りの橋をわたると少し大きな公園にたどり着く。中心部が芝生になっていて、多くの人がそこで昼食をとっている。アンジェもそれに習い、芝生に腰を下ろしてゆっくりと深呼吸をした。とりあえず日光浴して買い物でもしようかな。アンジェはそう考えた。心地よい休日の始まりである。



「はぁー、疲れた。久しぶりにすごい買い物しちゃった」
 一通りの買い物を終えた彼女はジェラートショップのテラス席に腰掛けていた。そこは最近ウエストのほうから進出してきたチェーン店で、女性から圧倒的な人気を誇っている。そんな店のジェラートを頬張る彼女の横にある袋の中には彼女の楽器のメンテナンスを行うものから麻のワンピースといった彼女の服、砂糖菓子や果物などの嗜好品といったようにピンからキリまでというか、多様というか、とにかくそれだけの量を彼女は携えていた。
「ん、おいし。いい桃の香り」
 彼女はそうつぶやくと、一気に口の中にそれを放り込み、帰路へとつくことにした。
 もうそろそろ夜の暗闇に包まれようとしている町では街灯が道を照らしている。まだ営業している店が殆どであり、客引きの声も鳴り止まない。飲食店にとってはむしろこれからが勝負であるのだろう、むしろ昼間より多くなっているようだった。そんな大きな町なだけあっていまだに人通りが多く、すれ違う人にぶつかりそうになることもしばしばである。
 そんな町の中をすり抜け、その次の角を曲がれば家までもうすぐである、というところでアンジェの目の前に突然小さな影が飛び出してきた。
「きゃ!」
 その小さな影に衝突したアンジェはその衝撃でそんな声を出し、道に荷物を投げ出してしまった。それほど大きな衝撃ではなかったため、袋からものが飛び出すことはなかったし、怪我をすることもなかった。せいぜいお尻が痛いくらいである。
 アンジェはその影の正体が一体なんであろうと思い、その小さな影に近づいた。
「だ、大丈夫? 痛くない?」
 その影の正体は、アンジェが心配してしまうような、白いワンピースに身を包んだ栗毛の少女であった。
「う、うん、大丈夫。それよりごめんなさい、お姉さんこそ大丈夫?」
 少女は気丈にもそんな言葉をアンジェにかけた。アンジェはそれに答える。
「うん、大丈夫。それより、お嬢さんはこんな暗い道でどうしたの? 随分急いでいたみたいだけど?」
 この言葉を聴くと、少女は慌てた声で立ち上がる。
「あっ、いけない! 早く帰らないとハルに叱られる!」
 そう言って少女が走り出そうとする。が、しかし。
「いたっ……」
 どうやら少女はアンジェとぶつかった時に足をひねったらしい。ずいぶんと痛そうだ。
「なにが大丈夫なの! 怪我してるじゃないの!」
 アンジェは少女の下へと駆け寄り、足の様子を見る。どうやら軽くひねっただけらしいが、それでもこんな小さな少女に怪我をさせてしまったのは自分であるし、もう暗くなるのに少女一人で帰すのも不安だった。
「とりあえず、お姉さんの背中に乗りなさい! 家近くだから、手当てしてあげる。ついでにおうちまで送っていってあげるから」
 少女は少しだけ迷ったようだが、すぐにアンジェの背中に乗った。アンジェは少女と荷物を抱え家へと急いだ。
 五分もしないうちに家へとたどり着くと、アンジェは少女をベッドの上に座らせ、救急セットを探し始めた。普段あまり使わないものなので、どこにしまったのだろうか、と記憶の奥を探る。ぶつかった場所から家に辿りくまでの時間よりも二倍ほどの時間をかけてようやく救急セットを見つけ出し、少女の元へと戻る。少女はなにが面白いのかはわからないが、アンジェの部屋を見渡してはわくわくしている様子だった。
 アンジェが足に包帯を巻いているところで少女が彼女に声をかけてきた。
「お姉ちゃんってバイオリン弾くの?」
「えぇ、そうよ、でもどうして?」
「だって、ほら、あれ、バイオリンの入れ物でしょ?」
 少女が指差した先には確かに彼女のバイオリンのケースが置いてあった。
「あら、物知りさんね」
 アンジェがそう言うと、少女は得意そうにへへ、と笑うと、こう続けた。
「だって、ハルもバイオリンさん作ってるの!」
「へー、そうなんだ。ハルってお父さん?」
「ううん、ハルはお父さんじゃないよ。ハルはハル! でねでね、バイオリンじゃななくて他にも……えーと、あのでっかいラッパみたいな……」
「トロンボーン?」
「そうそれ! とかね、お琴とかー、三味線とかー、チューバとかー、とにかくいっぱい楽器作れるの!」
「そうなんだー、それは凄いね!」
「うん!」
 アンジェは表向き平静を装いつつも、少し動揺した。どうやらこの少女の面倒を見ている人間は楽器を作れるらしい。もしかしたら……と思う気持ちをアンジェには抑えることが出来ない。それだけの種類の楽器を作れるのであれば相当の技術を持つ調律者である事は間違いない。しかし、そもそもその楽器がそれほどの質を持つものではないいわゆる器用貧乏な人間である可能性もあるし、そもそも子供向けに生産されているのを発注どおり作っているただの楽器作成者という可能性もある。むしろそちらの可能性のほうが高い。万が一調律者であったとしても、すでに他の演奏者と契約を交わしていては何の意味もない。
 でも。でも、もし調律者であって、他の演奏者と契約していなかったら。そう考えるとアンジェは平静ではいられなかった。
「よし、終わり!」
 彼女がそんなことを考えていても手は勝手に動くようで、少女の足にはすっかり包帯が巻いてあった。少しまきすぎたか? とも思ったが、まぁ困るほどでもあるまい、と考えて、家を出ることにした。
「さっ、行きましょうか……えーっと……」
 声をかけようとしたアンジェが困っているのを見て、少女は元気よく答える。
「リコ、私はリコだよ!」
「そう、リコね。私はアンジェリーナ。長いし、アンジェでいいわ」
「わかった、アンジェお姉ちゃん!」
 リコに住んでいる場所を聞くと、お世辞にも治安がいい場所とはいえない地域に住んでいるようだった。アンジェは一人で帰さなくてよかったと安堵し、リコと手を繋いで夜道を歩いていく。
 すっかり暗くなったとはいえ、まだ通りには活気がある。酒を飲んでいい気になった勤め人の声が騒がしい。他にも女性向け、男性向けの風俗店の客引きもこの時間になると出てくるようだった。
 こんな通りを横目に二人は路地へと道を踏み入れた。そこには表通りのような活気や道を照らす街灯もなく、ただただ暗闇と寂しさがあるだけだった。二、三度しかこんな場所にきたことがないアンジェは少し怯え気味だったが、普段から慣れ親しんでいるリコには何て事のないような道らしく鼻歌を歌いながらアンジェを引っ張っていった。アンジェは少し情けないとも思ったが、しかし怖いものは怖いので、リコに大人しくついていった。
 何回か右に左に曲がるとどうやらリコの家が見えてきたらしい。アンジェの手を引く速度が少し速くなった。それにあわせてアンジェの足の動く速度も早くなっていく。
「ここがリコのおうちだよ!」
 そう言ってリコは一つの民家の前で足を止めた。特に周りの民家との違いは感じられない二階建ての変哲もない建物だった。
「ハルー!」
 リコはアンジェの手を放し、その家の中まで駆けていってしまった。いくら手当をしたとはいえ、先ほど足をひねったばかりなのに大丈夫だろうかとアンジェは考えたが、本人が痛がっていなければ問題ないだろうと考え直し、それよりもそのハルという人にリコに怪我をさせたことを謝って、あわよくば調律者であるかどうかを聞き出すことにした。
 リコの後に続いてゆっくりと玄関からその家に入る。
「お邪魔しまーす……」
 果たして住人に聞こえるかどうか、というくらいの怪しい音量でそう言った。
 一階に人はいないが、どうやらリビングとして使われているらしい。ただ、そのリビングがアンジェにとっての普通と違うのは畳が使われているところだった。いわゆる東風の佇まいだ。アンジェは知識としては知っているが見るのは初めてである。家の外見は西風の建築であったために少し違和感を感じたが、ハルという人物はどうやらそちらの出身なのだろう、そう思い直してアンジェは部屋をさらに見回す。入って左のほうには台所、右手のほうには年季の入ったちゃぶ台があり、その上には夕食の準備がされているところが生活観を漂わせている。
 とりあえず一階にはリコが言っていた楽器を作っているような様子はなかった。まぁ、それも当然のことで、繊細な楽器をリビングに置いておくアホなんてめったなことではいないはずである。
 とにかく当初の目的であるハル、という人に挨拶をしなくては。そう思い靴を脱いで二階への階段はどこかと探そうと思ったところで上方からリコの声が聞こえてくる。
「ねー、ハル、いいから来てー!」
 どうやらリコが上からつれてきてくれるようである。それなら無理して上がることもないだろう、ここで挨拶をして、何気ない感じで調律者かどうか聞いて……って、何気なく調律者かどうか聞くってどうしよう!? ここに作りかけの楽器おいてあるとかならまだしも、なにもないよ!? リコに楽器を作ってるって聞いたからって言えば平気? いやでもなんかがっついてるみたいだし! どうしよ、どうすればいいんだろ!
 アンジェが一人混乱している中、奥のほうからリコが一人の男を引っ張ってきた。短く切り揃えられた髪に無愛想な目つきで薄汚れた作業着に身を包んでいた。
「あのね、あのね、アンジェおねえちゃんだよ! で、アンジェおねえちゃん! こっちがハル!」
「いいからちょっと黙ってろ」
 ハルと呼ばれた男性はそう言ってリコを小突くと、リコは「はーい」と少ししょぼんとしてしまった。そしてハルはアンジェのほうに向き直ったかと思うと、表情を固くした。その理由はアンジェにはわからなかったが、きっと驚かせてしまったのだろう。とりあえず、説明しなくては。と思ったところでハルから声がかかった。
「あんた……いや、いい。とりあえず何があったか説明してくれ。リコの説明じゃどうにもわからん」
「あっ、はっ、は、はい!」
 ただでさえ混乱していた中、ちょうど今しようとしていたことを先に言われてしまったアンジェは必要以上に大きな声を出しながら、しどろもどろに説明をしていく。それでもリコの説明よりはよっぽど理解しやすかったようで、ハルは説明を聞き終えると
「そうか、それは申し訳ない。飛び出したリコがいけないのにわざわざ送ってもらって」
 そう言ってアンジェに頭を下げた。
「い、いえいえ、怪我させたのは私も悪いし、そんな頭を下げなくても」
 さきほどよりは落ち着いた声でアンジェはそう返した。
「じゃあ私はこれで。またね、リコ」
 そうしてアンジェは家へと戻ろうとした。ハルが調律者なのかどうかを聞き出す案は思いつかなかったのである。が、しかし。
「えー、アンジェおねえちゃん帰っちゃうの? ねーねー、晩御飯食べていってよ!」
 と、リコが突然言い出したのである。
「え、いや、迷惑になっちゃうだろうし、いいよ」
「えー、あたし一緒にご飯食べたい! ね、ハルいいでしょ!」
 リコはハルのほうを純粋な目線で見上げる。その視線に向き合いながら、ハルは少し迷ったような表情を浮かべる。が、すぐに相変わらずの無愛想な面持ちに戻り、それをアンジェのほうに向け
「あんたさえよければ」
 そう言って用は済んだとでも言いたげに台所へと向かう。
「ほら、アンジェおねえちゃん、ハルも良いって! ほらほら、靴脱いで! 食べよ!」
 リコに引っ張られるアンジェはいそいそと靴を脱がされ、ちゃぶ台の横に座らされる。スカートの中身が見えないだろうか、アンジェはおっかなびっくりであった。机の上にはイーストの家庭料理のようで、焼き魚、味噌汁、なすの煮浸しと言ったやはり東風のものである。普段アンジェが口にしないものばかりが並んでいて面を喰らう。これどうやって食べればいいんでしょうか……と、アンジェは心の中でつぶやく。
「ハル早く早くー!」
 リコが台所にいるハルに声をかけると「大人しく待ってろ」という返事が聞こえる。しかしリコはその声が聞こえなかったらしく、立ち上がり台所のほうへと駆けていった。
 すぐにリコとハルが食器を持って戻ってくる。リコは嬉しそうな表情で笑いながら、ハルはなんとなく不機嫌そうな表情でこちらに向かってきたのが対照的である。
「はい、アンジェおねえちゃん、お茶碗だよ」
 リコはそう言ってアンジェに食器を手渡した。アンジェはまるでそれを生まれて初めて見るかのように丹念に眺めている。
「……なにしてるんだ、あんた」
「い、いや、普段使わないものなのでどんなものなのかと思いまして……」
 呆れたように言うハルにアンジェがそう返すと彼はため息をついて彼女からその食器を取り上げた。
「あんた量は食うほうか?」
「え、えぇ、一般女性よりは食べると思います」
 それだけ聞くとハルはなにか円筒状の物の中からスプーンのようなものでご飯を先ほどの食器に盛っていく。なるほど、それはご飯を盛るのか、と普段は平皿しか使わないアンジェは一人納得した。
 見るとリコはとうに準備が出来ているようで全員分の用意が出来ることを今か今かと待ちわびている。よほどアンジェが食卓に居ることが嬉しいらしい。
「ほら、これ。どうせ箸なんか使えないだろ」
 ハルがアンジェと自分のご飯を茶碗によそい終えて、こちらにスプーンと箸を手渡してきた。
「あ、ありがとうございます」
 ハルはアンジェが受け取ったのを確認するとリコと
「いただきます」
 と、声を上げて食べ始めた。普段一人で食事を取っているために、あまりそんなことはしなかったアンジェも「いただきます」と少し遅れて食事を取り始めたのである。



 アンジェのひざの上からは心地よさそうな寝息が聞こえていた。その犯人はリコではしゃぎすぎたのか、夕食を取り終えるとあっという間にアンジェのひざの上に滑り込み、寝息をたて始めてしまったのである。そんなリコの頭をアンジェは優しくなでていた。
 そうしながらアンジェは自分の母親のことを思い出していた。彼女自身も幼い頃母親のひざの上で眠っていた頃があったのである。そんなアンジェの胸には母親への想いが更に募ってくる。やはり、ハルに調律者であるか尋ねてみよう。アンジェはそう決心した。母親ともう一度会うためにはわずかの可能性だって捨てることは出来ない。
 アンジェがそう決心したところで、ハルが洗い物を終わらせ台所から戻ってきた。彼はアンジェの前に座ると、手に持っていたコップを彼女に差し出した。アンジェがそれを受け取ると
「お茶、口に合わなかったら飲まないでくれ」
 そう言って、今度は自分のコップに入っているお茶を一気に胃に流し込んだ。
 二人の間には沈黙が流れていた。そもそも、この家に上がっていけと無理を言ったのはリコであるし、そのリコが眠っているのだからアンジェはもう帰っても何も言われないはずだが、アンジェのひざの上に当のリコはいるのである。リコを起こすのはなんとなく忍びない。また、ハルが調律者である事も聞かなくてはならない。そういうわけで帰るに帰れないのであった。
 一方のハルも困ったもので、そもそもリコが連れてきたアンジェがどんな人物かわからない。けれど、リコを送ってくれたことは事実なので、むげに返すことは出来ない。会話を弾ませようとしても、生まれつきあまり喋らない性格であり、その上他人と過ごしてきた時間が殆ど無いということも災いし、こちらもまたどうすればいいのか困っているのであった。
 そんな二人の間の気まずい沈黙を破ったのはアンジェだった。
「あの……」
「なんだ?」
 少々無愛想に返したハルだったが、内心はほっとしていた。先ほどの空気を味会うのはゴメンだったわけである。大して、アンジェの内心は緊張の一色に包まれており、次になんと続ければよいか迷うほどだった。
「えっと、さっきリコから聞いたんだけど、えと、あなたは楽器を作ってるって」
「そうだけど何か?」
「で、でね、ちょ、調律者なのかなー……なんて思ったり……なんて……」
「それも出来なくはない」
「ほ、ほんとに!」
 アンジェは希望に目を輝かせた。まさかここで調律者に会うとは。予想以上の幸運である。そうしてアンジェは一気にまくし立てた。
「あ、あのね。私、演奏者なの。で、いろんな事情があって今度のエルシエロに出場したくて、調律者を探してて。で、でね、あなたさえよければ私に協力してくれないかな?」
「悪い、それは無理だ」
 ハルはアンジェのこの問いに即座に答えを出した。それは全く彼女の話を聞く気さえない速度での返事だった。
「え……も、もしかしてとっくに他の誰かと契約してた?」
「いや、そういうわけじゃない」
「えっ、じゃあどうして? お金? こう見えて私結構出せるよ?」
「そういうわけでもない」
「えっ、じゃあ何? なにが不満なの? どうして?」
「別にアンタが不満ってわけじゃない。俺があんたと契約できないのは俺個人の理由であって、あんたが悪いわけじゃない」
「何よそれ……」
 そういったきり二人とも黙ってしまった。先ほどより気まずい空気がそこにはあった。
 アンジェはその中疑問に思っていた。何故彼が調律者としての能力を持っているのに、それをしないかである。給料や待遇をケチるつもりはない。そもそもお互いの同意があっての契約であるため、彼に不満のある契約をさせるつもりは無かった。他に問題があるとすればリコだろうか。彼女の面倒を見るため……とか。それならばその分も込みで契約してもいい。アンジェもリコは嫌いでない。むしろ彼女の笑顔は万人を笑顔にする力があった。しかし、何故契約の話すらしようとしないのか。アンジェはそこを不思議に思っていた。
 ハルはアンジェが疑問に思っていることの答えを脳裏に浮かべていた。彼が調律者をしなくなったその理由。そのことを思い出すきっかけはアンジェにあったのであるが、そのことで彼女を攻め立てるのは筋違いである。アンジェは何も知らないのだし、そもそも自分が調律者であったことを口に出さなければよかったのである。事件を起こしたこと、自分が調律者であったことを言ってしまったこと、この二つへの怒りを自分にぶつけ彼は黙っていたのである。
 そうやって二人とも口を開くことなくしばらくたつと、アンジェのひざの上で寝息を立てていたリコが目を覚ました。アンジェのひざの上から体を起こしたリコはハルー、と言って彼に抱っこをせがんだ。
 ほいほい、とハルは彼女を持ち上げ階段を上っていく。
「あ、じゃ、じゃあ私これで。……色々とごめんなさい」
「いや、気にするな。あんたが悪いわけじゃない。リコが迷惑かけたな」
 そういうとハルはほの暗い二階へと吸い込まれていく。アンジェはハルの家を出て、その家を見上げる。
「どうしてかしら……」
 そうつぶやくとまた前に向き直り、先ほど来た道を振り返る。ここで立ち止まってはいられない。が、アンジェはまた調律者を探す日々が始まることを考えると少しだけ気分が重くなった。せっかく見つけたと思ったのに……そんなつぶやきは誰に聞こえることもなく夜の町並みにとけていった。



 そもそもエルシエロとは何か。端的に言ってしまえば、レース競技である。
 では、どのような競技なのか。
 まず、所謂レーサーは演奏者である。演奏者はコロンと呼ばれる円盤状の装置に乗り、各々の楽器を演奏する。その演奏がコロンの推進力へと変換され、その推進力を用いてコロンの操縦を行うのである。また、演奏が推進力に変換されるには、演奏の上手さ、曲に対する感情や楽器の出来不出来が大きく影響している。つまり、エルシエロで勝つためには演奏者の技術だけでなく調律者の技術も大きな割合を占めている。
 では、その調律者の役目はというと、大きく二つあるといえよう。
 まず第一にして最大。楽器に関するものである。
 楽器の作成は勿論のこと、破損や痛みの出た楽器の修理。演奏者が演奏しやすくなるために楽器の改良。これらは全て演奏者がコロンの速度を上げることができるように行われるものである。レース競技では速度が命とでも言うものであり、これをあげるために演奏者も調律者も苦心するのである。
 もう一つはエルシエロ中のナビゲートである。
 これは、通信機器を用いて演奏者へとそのときのレースの状況、自分の順位、作戦を伝えるものである。楽器に関わるものと比べれば多少重要度は下がるかもしれないが、それでも重要なことに変わりはない。的確な情報はレースを大きく左右するし、演奏者の精神状況にも多大な影響を与えることは間違いないだろう。
 その二つを求められる調律者は実は演奏者よりも少ない。正直な話、楽器の演奏なんてものは多少習いでもすれば得手不得手は別の話として可能なものである。対し、楽器の作成というものは多少習ったからといってどうなるものでもない。下手な人間が作った楽器なんてものはそもそも聴けたものではない。そういうわけで、演奏者は必死になって調律者を探すのだが。
「はぁーあ……」
 ハルとリコの二人にあった翌々日。アンジェはいつものリビリアの店で大きなため息をついた。リビリアはどうやら忙しいらしく、彼女のそんなため息に気づかなかった。
 どうしてなのかしら、アンジェの考えはやはりそこにたどり着く。なぜ彼は調律者として動こうとしないのか。腕に自信がないから? 確かに調律者として未熟だからと、腕に自信がつくまで調律者として動かない人間もいる。が、それなら最初から調律者であると言わなければいいし、言ってしまってからだってまだ未熟だからといえばいいものである。
 それに、あのハルの表情は明らかに別の事情によるものだった。それはなんなのだろうか。それさえ解決すれば私の調律者になってくれる可能性はあるのだろうか。そんな考えがいたちごっこのように頭の中を駆け巡り始めた所だった。
「あら、アンジェ? 悩み事? そ・の・か・お・は! 想い人のことを考えていたのね? どう、当たりでしょ?」
 と、ふふんと鼻を鳴らしリビリアが声をかけてきたのである。
「うん、まぁ、ある意味ではあってるけど……」
「えぇ!? あってるの! さぁ、どんな人なの? 私、恋のキューピッドことリビリアちゃんにお話なさい!」
「だから、ある意味だって言ってるじゃない! 別に恋とかそういうわけじゃないから!」
 ふーん? そう言いながらリビリアは首をかしげてアンジェを見下ろす。
「まっ、そういうことにしておいてあげるわっ、そ・れ・で・も! 困ったときには私に相談するのよ、アンジェ?」
「ふふ、ありがと、リビリア」
 じゃ、仕事に戻るから、とリビリアはキッチン裏へと飛び込んでいく。アンジェはそんな友人にほんの少しのうっとうしさと、大きな感謝の念を持って混み始めた店内を後にした。
 昼下がりの騒がしい道を歩きながらアンジェは考える。やりたくない、できない、というのなら仕方がない。他の調律者を探すしかないのだ。明日からまた始まる情報屋めぐりの日々を思うと少し気が重くなるが、仕方ない。とにかく気を取り直して練習、練習!
 そうやって自分を鼓舞し、家の前までたどり着いたときである。
「アンジェおねえちゃん!」
 ドン、と彼女の身に強い衝撃が走った。何とかその衝撃に耐えその原因に意識を向けると、それは意外な人物だった。
「リコじゃないの? どうしたの一体?」
 そう、それはあのハルのもとで育つリコだったのである。リコは無邪気な笑顔を浮かべたまま、後ろの方、彼女の面倒を見ている人間の方向を指差した。
「あのねー、ハルがアンジェのところ連れてけって! お前ならあいつの家わかるだろー、って!」
 そう、そこにいたのは他でもない、彼女を悩ませていた人間だったのだ。
「……よう」
 そう言って、軽く右手を動かして彼女に挨拶をしたその姿にアンジェは驚きを隠すことができなかった。



 アンジェにとっては見慣れた自分の部屋に見慣れない闖入者が二人いた。一人は彼女のベッドの上で飛び跳ねているリコだ。いつものように体内にもてあましたエネルギーの発散場所を捜し求めるように所狭しと動き回っている。もう一人はアンジェの目の前に座るハルである。リコとは対照的に静かにアンジェのほうを見つめ、ゆっくりと、しかし確実にアンジェにとっての吉報を遠まわしに告げるのである。
「えぇと、それはつまり、私の調律者になってくれるってことでいいのかな……?」
「……んまぁ、つまりはそういうことだ」
 婉曲な言い回しに我慢がならなかったアンジェがそうまとめたことでハルはほんの少しだけ眉をひそめたが、うなずいた。
「でも、条件が二つ、それと聞きたいことがある」
「なに、条件ってお金? お金ならいくらでも払えるわよ?」
「違う、そうじゃない」
「じゃあ、なに?」
 ハルは一瞬だけ間を空けて続けた。
「変なこと聞くんだが……こう、うさぎっぽいねずみの着ぐるみに見覚えはないか? それか俺のことを誰かに話したりは」
「……なにそれ、うさぎっぽいねずみ? 知らないわよ、そんなの。それにあなたのことを誰かに話したりしてないわ。他の演奏者に取られる訳にはいかないもの」
「そうか、それならいいんだ……」
 ハルカはアンジェの目をじっと見つめて少し考え込んだ後、言葉を発した。
「よし、いいだろう。で条件の方だが、まず一つ。自分で言うのもなんだが、俺はそれなり、いや、かなりの調律者だ。楽器の作成はもちろん……あんたの楽器は? 見たところバイオリンでいいのか?」
 アンジェはこくん、と音が鳴るようにうなずくと、ハルは傍から見ていたらほとんどわからない程度に頬を上げた。
「それなら問題ない。得意中の得意だ。で、楽器の作成はもちろんレース中のナビゲートも他の人間に劣らない思っている。だからあんたにもそれ相応の腕を期待したい。とりあえず、あんたの演奏を聞かせてくれ。それで俺の納得のいく腕前であること。それがまず第一条件だ」 
 アンジェは黙ってうなずく。ハルはそのまま続けた。
「で、もう一つ。演奏者の中には楽器を作成してる間にいろいろ文句をつけるあほがいる。やれ、もっと音を澄ませろだの、やれ、もっと装飾しろだの。俺はそれが嫌でたまらん。だから、俺の作った楽器に文句はつけないこと。これが二つ目。どうだ? それでいいなら俺はあんたの調律者になってやる」
 アンジェはほんの少しだけ考えた。彼が本当にそれほどの腕前なら、この条件は呑んでもなんの問題もない。だが、しかし実はぜんぜん言うほどの腕前でなかったら……一瞬そこまで思考が及んだが、もしそうであればまた別の調律者を探すまでである。アンジェはうなずいた。
「それで構わないわ」
「よし、じゃあ、早速あんたの演奏を聞かせてくれ」
 えぇ、そう言ってアンジェは自分の楽器ケースに手を伸ばし、そこから愛用のバイオリンを取り出した。そのバイオリンがハルの目に映ったとき、彼の右眉がほんの少しだけ動いたのにアンジェは気づかなかった。



 小さな部屋に小さなリコの大きな拍手が鳴り響く。
「アンジェおねえちゃん、すごい上手ー!」
 リコはそうして、いつまでも拍手を続けている。
「どうだったかしら? ハルさん」
 ハルは下ろしていた腰を持ち上げ、アンジェの前まで進むと右手を差し出した。
「想像以上だったよ。よろしく頼む」
 アンジェはその右手を強く握ると
「えぇ、こちらこそよろしくお願いするわ」
 そう言ってしばらくの間二人は握手を続けたが、それはリコが二人の間に「わたしもー!」と言って割り込んだところで終わった。リコが二人と握手するのに満足したところで
「よし、じゃあそろそろ帰るぞ、リコ」
 そう言ってハルはリコを連れて帰ろうとする。が、リコは駄々をこね、アンジェの袖をつかんで離そうとしない。はぁ、とため息をつくハルはリコから視線を上げてアンジェの顔を見つめると、少し考えてこう言った。
「なぁ、さっき条件二つって言っただろ? もう一つだけ付け足していいか?」
「何?」
 少しだけ顔に照れを浮かべながら、リコを指差しこう続ける。
「こいつとたまに遊んでやってくれ」
 アンジェは浮かべた驚きの表情を満面の笑みに替え大きくうなずいた。
「もちろん!」
 こうして、アンジェとハル、二人の物語は始まるのである。
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