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第二章

 レースはすでに佳境へと差し掛かっていた。先頭を進むは三人。一人は白髪を風に揺らし、バイオリンを演奏するアンジェ。もう一人は同じくバイオリンを演奏し、その金色の髪を同じく風になびかせる少女であった。そして、もう一人は。
「ははは! 小童ども! わしを追い抜けるかな? ぐわっはっはっは!」
 頭をスキンヘッドにし、上半身は裸で下半身はふんどしという場所が場所ならお縄を頂戴していてもおかしくはない格好のおっさんであった。風にたなびくふんどしが非常に気分を悪くさせる。そんな姿の男がスタートから一度としてトップの座を譲らないのである。
 スタート直後、多くの人間が先頭を争ってスタートした。が、あわや混戦か、と思われたその瞬間あのふんどしの男がほとんどの人間を堕としていった。そして無事に生き残っていたのは、後続集団と運良く彼の猛攻を避けたトップにいる三人、それにサックスを使った青年とピアノを弾く老齢の女性だった。その二人はこのおっさんに勝負をしかけ、ことごとく散っていった。
「ンドゥール! そんなガキどもに負けんなよ!」
「当たり前じゃ、わしを誰だと思っている!」
 観客のそんな野次にも答えつつ彼はトップを進み続ける。しかして、そんな彼の手元に楽器はない。ではなぜ彼はその状態でトップに居座り続けるのか。理由は簡単である。彼自身が楽器なのだ。
「おぅら! おぅら!」
 そう叫びながらンドゥールは自分の胸、腹やふととも、時としては顔までをも手のひらで殴りつける。その響きはリズムを生み、音楽を作り出す。それはまるでサンバのように暑く、ロックンロールのように熱い漢の音楽であった。
「ハル! あのおじさんいったい何者なの!? 自分の体が楽器とか言い始めたときも驚いたけど、あの速度追いつけないわよ!」
 アンジェはマイクの向こう側にいるハルに呼びかける。
「あぁ、調べてみたぞ。ンドゥール・ジャコ。見てわかるとおり独身。好みはいわゆる大和撫子タイプだそうだ。まっ、この暑苦しいおっさんに似合うとは思わんけどな。趣味はプールに山登り。アウトドアだな。おっ、甘いものも好きらしいぞ? 特にケーキには目がないそうだ」
「って、そんなことはどうでもいいでしょ! あのおっさんに勝てる方法を教えなさいよ!」
 アンジェは痺れを切らし、叫ぶ。
「そう叫ぶな、耳がちぎれる。いや、別にあのおっさんは勝てなくてもいいんだがな……」
 そう言いハルは髪の毛を右手でくるくるいじる。
「そりゃ、本選進出にはこのレース十位以内であればいいんだけどね? でも負けるのは嫌じゃない! そもそもここで勝てなかったら本選でもこのおっさんに勝てないわよ?」
「いや、まぁ……」
 そうやって言葉を濁したハルはアンジェがもう一度彼をせかそうとした直前に言葉を発した。
「いいや、どうしても勝ちたいんだったら、となりの金髪の女いるだろ? あれと共闘って形ならまだ勝てなくはないぞ。実際そいつの調律者からも誘いがきてる。お前に似て負けず嫌いらしいな」
「なんて言ってるの?」
「『あんな野蛮な男に負けるなんて私のプライドが許しませんわ! 特別に私の力を貸して差し上げましょう!』だそうだ」
「プライド高いわね……」
「まっ、とりあえず話してみる」
 ハルがそう言うと通信が切れた。おそらく隣の女の調律者と交渉しているのだろう。アンジェは金髪の女のほうをちらりと見る。まぁ、言われてみれば縦ロールという金持ちしかやらないような髪型だし、身に着けている衣類も相当高価な印象を受ける。プライドが高いのも当然のことだろう。そんなことを考えているとハルは早々に交渉を終わらせたようで、またすぐにアンジェの耳には通信の音声が入った。
「アンジェ、手順が決まった。一回しか言わないからよく聞け」
「了解」
 短く返事をして、その後のハルの言葉を頭に叩き込む準備を行う。
「と言っても簡単なもんだからな。まずお前があのおっさんの妨害をする。それでスピードを下げる」
「うん」
「で、その間にあの女が追い抜く」
「うん」
「以上だ」
「何よそれ! 私たちのメリットは?」
 ハルが嘆息して答える。
「ねぇよ……向こうがすげぇ傲慢で。押し切られた。これで完璧だ! お嬢様の考えた作戦に狂いはないって」
「あのね……」
「まぁ、一応貴族の娘らしいし、お近づきになって損はないんじゃないか? なんか特別にソフィアお嬢様をお嬢様と呼ぶ権利を与えますとか言ってたぞ」
「家出してるとは言え、私も一応そういうところの娘なんだけど……まぁ、もういいわ。とりあえずやってみる」
「頼んだ、無理そうだったら即効で離脱しろ。そのおっさんに負けても本選は進めるし、そもそも負けても何の問題もないから。墜ちる前に逃げろ」
「了解」
 アンジェは左側にいる金髪の少女に目を向けた。外見からすると年はアンジェとあまり変わらないように見えるその少女はアンジェと視線を合わせるとふんわりと微笑んだかと思うと、表情を邪悪に一変させ顎で前方を進むンドゥールを示す。
 つまりはとっとと行け、ということだろう。アンジェはなんとなく釈然としない気持ちを持ちながらも演奏にエネルギーをそそぎ、男に右側から追い抜きにかかる。ここまでは誰でも上手くいくのである。
「ほほぅ、次は白髪の小娘か! 勝負を挑んでくるとは感心、感心! わしが叩き潰してくれよう!」
 無駄に暑苦しい台詞を吐きながらンドゥールはアンジェの側に寄ってくる。そう、ここからが問題だ。先の二人もここでンドゥールのアタックを受け無残にも散っていったのだった。
「それぃ、食らうがいい!」
 急激にスピードを上げたンドゥールがさながら闘牛のようにアンジェへと襲い掛かる。
 迎撃か、逃げか。恐らく先ほどのピアノの老婆はスピードで一気に追い抜こうとして失敗した。サックスの少年は力試しを挑んであっさりと紙くずのように敗れて墜ちていった。ならば。
「避けるのが、正解よね」
 アンジェは高度を急激に下げて、ンドゥールのアタックを避ける。
「流石にさっきの二人を見て学習したらしいな! だが、最初をかわしたくらいでいい気になるなよ? それぃ、もう一丁!」
ンドゥールは胸の筋肉を16分のリズムで激しく連打し、先ほどよりもスピードを上げて急降下。アンジェに突っ込んできた。それに対しアンジェも弦を爪弾くスピードを上げ前に避ける。
「それそれぃ! いつまで逃げ切れるかな!」
 ンドゥールは後ろ下から太ももをたたいたエネルギーでかちあげてくる。対しアンジェは上後ろに避ける。そうしながらアンジェは徐々に右に、右にとンドゥールに気づかれない程度に移動していく。その間も金髪の少女はその少し後ろで二人の様子を見守っている。
「くっそ! やっぱり速いこのおっさん!」
 右の後ろに左の後ろ、上下左右に前後。四方八方から飛んでくるアタックを避けるアンジェ、避けられても避けられてもそれを追うンドゥール。その二人は一見互角に等しいかとも思われた。が、しかし、ンドゥールの方が加速、切り返しにおいて勝っていたようで、アンジェは少しずつ、少しずつ追い詰められていく。そんな綱渡りの緊張感の中でどこにいるかを見失っていたアンジェの目に小さなゴールの文字が移る。レースはゴール前、最終のストレートに差し掛かっていたその時。
「はははは! よくここまで耐え切ったな? その褒美に最速、最大、最高のわしの音を聞かせてやる!」
 そう叫んだンドゥールは中腰になり、太ももの左右、左胸、右胸を順番にゆっくり、そして優しくたたきつける。初めは優しく、包み込むようだった肉をたたく音はクレッシェンドを伴って、だんだん強く、そして速く、アッチェレランドしていく。 そうして音は昇り詰め、一気に弾けた。その瞬間ンドゥールの姿はアンジェはもちろんのこと、観客の目からも消えた。
 アンジェはその瞬間後ろにいた金髪の少女に視線を送る。どうやら彼女も同じタイミングを狙っていたようで、まるでメイドや執事を褒めるような目線でアンジェのことを見たかと思うと、彼女は優雅に、そして上品に弦を引き、いきなり姿をその場から消し、二人の左側を抜き去っていく。
 アンジェはそれを見届ける間も無く、とにかく下に急降下した。するとすぐ頭上を風が通り抜ける音。ンドゥールだ。次が来る。そう考え身構えていたアンジェの耳にンドゥールの声が届いた。
「ぬおっ! やられたわい! だが、まだ甘いぞ!」
 声がしたほうへ一瞬だけ意識を向けるがそこにはもうンドゥールはいない。かと言ってこちらに来る気配はない。どうやらあの金髪の少女のほうへ向かったらしい、と思った瞬間、ゴール目前にいたその少女が前へと吹っ飛んだ。
 そのまま墜ちるかと思われたが、なんとか右腕でコロンにしがみつき体勢を立て直そうとしている。アンジェはそれを見て、自身のスピードを前方へと集中させる。一気に加速して五十メートルほど先にいた少女を追い抜く。横目で見たその姿は歯を食いしばり眉をひそめ、苦虫を一気に噛み潰した表情をしていた。
 前方からは大きな拍手、歓声、悲鳴や怒号といった声が聞こえてくる。どうやらンドゥールがゴールしたらしい。それに遅れて三十秒ほどで、アンジェがゴール。さらに遅れて先ほどの金髪の少女がゴール。ぎりぎりの状態だったらしく、ゴールしたとたん崩れ落ちるように下へと着地した。
 その後次々と後続がゴールする中、アンジェの元にはハルが駆け寄っていた。
「なによ、あのめちゃくちゃなおっさん……あんなのに勝てって言うの!? ほんと、甘く見すぎてた! ていうかあんなおっさんでさえ勝てないほど『ペガサス』って速いの!? ほんと、何!? くそ! もっと速くならなきゃ! もっと! もっと!」
 アンジェは地面に座り込み、どこに向けるでもなく叫ぶ。自分の弱さと甘さへの怒りを発散させ、それでもとまることのない感情の奔流に飲まれていた。そんなアンジェにハルは少し溜飲を下げながら声をかけた。
「アンジェ、ちょっと落ち着け」
「これのどこが落ち着けるって言うの!? 私、全レース一番で勝つつもりだったのよ! なのにいきなり最初からこんな結果! もっと速くならなくちゃ……」
 アンジェがキッとハルのほうに顔を向けた。その顔は涙を力ずくで押さえつけているためか、その年、いや、全年齢の紳士淑女がしてはいけないようなひどくゆがんだ顔だった。
「うん、確かにな。お前はまだ遅い。今のままではきっと『ペガサス』とにも勝てないだろう。そんな状態で全部一位で勝とうと思っていたことも大きな思い上がりだ。それでも、な」
「それでも!?」
「あれ、見てみろ」
 アンジェはハルが首で指した方向を見つめる。しばらくそちらの方向を見ていたが全くわけがわからないようでもう一度ハルに向き直り叫ぶ。
「あれってなによ、あれって!」
「ほら、もう一回見てみろ。あの白衣の人間が集まっている場所」
「はぁ!? ……確かにいるけど、あれ救護班でしょ? どうせあの金髪の女か、そうでなければほかにゴールして倒れたやつとかを運んでるんじゃないの?」
「そう、その通りだ。まぁ、大事なのはそこじゃない。ほら、担架で運ばれようとしている人間見てみろ」
「よくわかんないけど……えっと、スキンヘッドで、上半身裸で下はふんど……ってあれあのおっさんじゃない!?」
「そう、つまりはそういうことだ。そら、説明してやるからついて来い」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 全く意味わからないんだけど!?」
 地面に座り込んでいるアンジェに手も貸さないで背中を向けて歩き出すハルの後ろを彼女は追いかける。彼女の表情は先ほどの恐ろしい表情とはうってかわり、少し眉間に皺がよってはいるものの、年相応の少女の表情であった。



「えーっと、まとめると。あのおっさんは一発屋ってことでいいの?」
「まぁ、そういう理解でいい。間違ってはいないからな」
「あんたが勝てなくてもいいっていったのはそういうことなのね?」
「そういうことだ」
 ハルがアンジェに説明したのはこうだ。あのふんどし男――ンドゥール・チャコは己の肉体を楽器として走行することで、非常に有名な演奏者である。その暑苦しいほどまでの音色は多くの(主に男)ファンの心を掴んでやまない。もちろんそこまでの男だ、今世紀最速と言われている『ペガサス』と遜色のない実力を持っている。
 が、彼には大きな弱点があった。己の体を楽器として利用するため、短時間の演奏しかできない。長時間演奏すると、ゴールしてしばらくすると「ちょっと叩いてたところが痛いから医者を呼んでくれ」という始末だと言う。
 そんな彼は毎回エルシエロに出場し、第一レースで圧倒的強さを見せ付けたあと、医者に運ばれドクターストップ、あえなく棄権となる。そんな彼の姿を敬愛してなのか揶揄してなのかは定かではないが『一夜限りの厚い胸』などという何と掛けているのかさっぱりわからない通り名すらあるという。
「何よそれ……というか言ってくれれば良かったじゃないの」
「知らんと思ってなかったんだよ、やけにつっかるな、と思ってはいたんだが」
「だから、私この世界で有名ー、とかぜんぜん知らないんだって」
「世間知らずのくせによくエルシエロに出ようと思ったよな」
「私にはここで勝たなきゃいけない理由があるの。だから戦う。そして、勝つ。それだけ」
「んじゃ、もっと速くならなくちゃな」
「……わかってるわよ、そんなの」
 アンジェはハルから視線をそらして、そっぽを向き目の前のフラペチーノを飲み干す。やれやれ、という視線を送っているハルはホットコーヒーを一口すすった。
「まっ、なにはともあれ、本戦進出おめでとう」
「ふん、当然よ、私ほどの実力があれば、ね。あんたもちゃんとやりなさいよ?」
「わかってる、わかってる」
「じゃ、店出ましょうか? で、一応本戦進出したんだし、とりあえず祝杯でもあげない?」
「とりあえずリコを迎えに行ってからな」
「ん、そうね、行きましょ」
 そうして背中に悲喜交交、多くの視線を集めながら二人は会場を後にする。
「アンジェリーナ……」
 どこかでそんなつぶやきが聞こえたが、それが二人の耳に入ることはなかった。



 その部屋には小さな窓ガラスには鉄格子がはめられ、部屋の中心と隅に机が二台あった。中心のものには椅子が二脚、隅のものには一脚。他には何も無い殺風景なこの部屋の中には、二人の男が向い合って座っていた。
 二人は対照的な容貌で、一人は筋骨隆々でスキンヘッド。身につけているスーツは今にもはちきれんばかりだった。一人は目の前の男が少し力を入れれば折れてしまいそうな細い体、髪は青く腰まで垂らしていて、純白のマントを身につけたその姿は美少年、と違って差し支えないものだった。
「それで、ンドゥール。その女に問題はないのか?」
 青髪の男が目の前の男、ンドゥールに声をかける。
「はい、実力も十分、素行も問題ないようです。ただどこぞのいいとこのお嬢さんって所が気になるところですが」
「まぁ、実力があるなら問題ないだろう。あとは任せたぞ、信頼しているからな」
「かしこまりました」
 ンドゥールが部屋を出るとそこには青髪の男が取り残された。彼は手に取っていた資料を机の上に投げると立ち上がり、つぶやいた。
「アンジェリーナ、ね。まぁ役にたってくれればいいけど」
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