ヒメゴト

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愛情の持続性とその効用について。

 足の爪が伸びていることに気づいて、僕の隣にいた彼女がもういないことを改めて思い知らされる。確かどこかに足の爪専用の爪切りがあったような気がし て、探しはしたものの自分ではどこにしまってあるのかわからなかった。仕方ないので、手近にあった普通の爪切りでゆっくりと切っていく。隣の住人は出かけ ているのかすでに寝ているのかわかりはしないけれど、いずれにせよ静かだった。部屋にはパチン、パチン、という爪を切る音しかない。自分以外が発する音は 存在しなかった。
 その時、彼女に別れを告げられてからもう三ヶ月は過ぎている。けれども日々の節々に彼女を感じてはその不在を確認させられる。忘れたい、いや、忘れなけ ればならないのだ。このままやり場のない思いを抱え続けて生きていける程、僕は強くない。けれども彼女のことを忘れようと思い込んだところで、簡単に忘れ られるほど彼女への愛情が浅いものである、ということでもない。僕は彼女を未だに愛している。それも見苦しいほどに。そんな僕は醜いと思う。まだ伝えてす らいない思いならともかく、すでに伝えて、成就して、枯れてしまった思い。そんな思いを未だに持ち続けているのだから。あたかも先の短い生にしがみつく老 人のように。
 考えることをやめたい僕は安易にアルコールに手を出すことにした。冷蔵庫に常備しているマスカットのリキュールを取り出すと、乱雑に積み重なっている洗 い物の中から手近なグラスに氷を二、三いれて、トクトクと注いでいく。透明なグラスの半分が綺麗な薄緑色に染まったところで冷蔵庫にリキュールを戻した。 足にカーペットの感触を感じながら、二人がけのソファーに腰を下ろす。これも彼女が家にくる時にあった方がいいな、と思って買ったことを思い出してまたす ぐに後悔した。とにかく考えるのをやめたくてグラスに口をつけると、爽やかなマスカットの香りの後に少し強めのアルコールが喉にきて、ほんのすこしだけむ せる。いつもは炭酸で割って飲むのだが、運悪く切らしていたからといってロックで飲むのは失敗だったかもしれない。けれど、よくよく考えてみたら、ただ 酔っ払ってしまいたいだけなら、別に薄める必要はないのだから、むしろこの方が好都合だったことに気づいた。
 時折グラスを回してグラスの音を鳴らしては、少しづつ少しづつ飲んでいく。注いだ半分も飲むと、もうすっかりアルコールが回っていることを自覚した。頭 がすこしボーっとして、顔が熱い。耳も熱くなっている感覚がする。僕はお酒が好きなわりには、アルコールに弱くてこのあたりは経済的で自分で気に入ってい る。それ以外は大体嫌いだけれど。
 それにしても。なんとなしに今の状況がおかしくて笑ってしまう。彼女を忘れたいがために酒を飲む。そしてそのために飲む酒が彼女が気に入っていたものだ とは。自分が発した笑い声は思ったよりも乾いていて、思ったよりも力がこもっていなかった。部屋に反響することなく消えていった自分の笑い声は、寂しさを 加速させるには十分な威力を持っていた。グラスに残っていたものを一気に飲み干して、また冷蔵庫へと向かう。これは彼女が好きだったから飲んでいるんじゃ ない、僕が好きだから飲んでいるんだ。そう自分に言い聞かせるためにさっきより多い量をグラスに注ぎ、その場で飲み干した。氷で薄まってすらいないから、 僕には強すぎるアルコールが喉に直撃して先ほどより強くむせた。そんな自分が馬鹿らしくなって、大きな声で笑う。アルコールが回っている頭には、それが自 分の声だとうまく認識できないようで、他人が笑っているように聞こえた。それがまたおかしくなって、また僕は笑う。そしてひとしきり笑うと、一気に摂取し たアルコールが波のように押し寄せて、僕は立っていられなくなった。ドスン、と大きな音が聞こえたかと思うと、耳にはもうなんの音も聞こえない。
 あぁ、僕は一人なんだな。うっすらとそう思って、意識は落ちていった。

*****

「飲みすぎた」
 どこともなくつぶやくと、まだ働いていない頭を抑えて立ち上がった。カーテンをしめていなかったせいで朝日が差し込んでいる部屋はそれほど散らかってい なかったが、台所には昨日使っていたグラスと、すっかり空になった酒の瓶が転がっている。八畳の部屋の中にはすっかり甘ったるい匂いが広がっていて、なん だか胸焼けがしそうだった。どうやら、完全に飲み切る前に流しにこぼれていってしまったようだ。それほど高い酒ではないと言え、少し残念だ。流してしまっ た酒も、酔っ払って前後不覚になる自分も、それを覚えていない自分も。
 ひとまず顔を洗おう。そう決心して立ち上がり、蛇口をひねった。冷たい水が顔の表面の気だるさを少しづつ拭いさる。手で器を作って顔にぶつける作業を五 回くらい繰り返したところで、ようやく頭の気だるさも少しマシになった。さて、今日は何をしようか、せっかくの休みだし。そう思ったところで腹の虫がうず き、昨日の夜にたいして食事をとっていないことに気づいた。空きっ腹に酒を飲んだから余計酔っ払ったのだろう。とりあえず朝食かな、そう思って目の前にあ る冷蔵庫を開けた。一昨日に駅前のスーパーで買ったヨーグルト、それに戸棚のグラノーラを取り出して、適当な量をボウルにもった。腹が減っていたのでいつ もよりも多めに。なんだか女子のような食事だが、それもそのはずでこれも彼女が食べているのを見てから食べ始めるようになったからだ。確かホテルで一夜を 過ごしたあと、ホテルの朝食で頼んでいた。普段もよく食べていると言っていた。確かに彼女の家に泊まった時も僕が朝食に出されたのはヨーグルトをかけたグ ラノーラだった。でも、ホテルの朝食に出てきたのは彼女にとっては量が多かったようで、最終的には僕が三分の一くらい食べていたような気がする。
 思えばたいがい彼女は少食で、外で食事をするといつも僕が彼女の注文した料理の残りを食べていた。おかげで交際当初と別れる直前を比較すると五キロ近く は太っていた。今は少し節制しているので、三キロほど痩せたのだが。その努力を当時に回していれば、と一瞬思ったが、その考えに意味がないことに気づいて すぐに脳外へと追い出した。いくらでも言われていることだけれど、歴史にイフを考える意味はない。それは人生も同じで、もしあの時こうしていれば、なんて 考えることは一切の無駄なのだ。なにをしてもあの日々は戻ってこない。例えば、タイムマシンなんてものがあったとしてもそれは変わらない。僕が今更何をし ても、変わらない。
 朝から暗い気分になってしまったな、と思ったところで携帯にメッセージが届いていることに気づいた。それは昨日の深夜に届いていて、見覚えのない電話番 号からのものだった。今の時代、大体の連絡はラインなりスカイプなりで済んでしまう。どうせ迷惑メールやらそんなところだろう。まぁ、面白い文面だったら 話のネタくらいにはなるから見てみるか。そう思って、画面をスライドしてメールを開くと、それは思いも寄らない、というか、記憶の範囲外からの奇襲で僕は 三十秒ほど記憶の海をさまようことになった。そこに書いてあった文面は、こう。
『お久しぶり、町田です。覚えてるかな? 突然で申し訳ないんだけど、よかったら明日食事でもしませんか。十一時半位に、渋谷で待っています。では。』
 町田、そう思い出した。確か中学校の頃、仲が良かった女子だ。その当時は正直ブサイク、というか太っている方でクラスの中心男子の間では確か散々に言わ れていたと思う。突然話は変わるけれど、中学校ってクラスにグループができていた、というのはわりとみんなあるんじゃないだろうか。端的に言ってしまえば 大きな中心男子グループ、中心女子グループ、男女混合グループとそれに外れて、離島みたいになってる小さな三人くらいのグループがちらほらみたいな感じ で。僕はそこの男女混合グループにいて、町田と仲良くなったのはそこのグループの一員だったからだと思う。まぁ、仲良くなった経緯なんてものは意外に覚え ていないもので、正直仲良しであったという事実があればどうでもいいものなんだ、とは思う。
 だけど、中学校を卒業してから没交渉だった彼女から連絡がくるというのは、あまりにも僕の脳みその想定外だったもので何回もメッセージの文面をなぞって しまう。そして、昔ネットで見た宗教とかマルチとかそういった類の勧誘なのではないか、というところに思い至った。けれど、そういった類であれば他の人も 連れてくるだろうから、もっときっちり約束を取り付けるはずで、では結局何が目的なのか、というところは結局会ってみなくてはわからない。まぁ、ここ最近 なかったイレギュラーに付き合ってみるのも悪くないか、そう思って、時間を確かめる。携帯の上部では今がメッセージで指定された時間の三十分前であること を示していた。今すぐに出て行っても遅刻になってしまうし、たとえ、そうするにしても渋谷に行くのに寝起きそのままの姿で行くわけにもいかない。仕方ない のでメッセージが教えてくれる番号に電話いれることにした。三回のコール音の後に、メゾソプラノくらいの声が聞こえてきた。
「もしもし、町田です」
「あっ、どーも矢島です」
「やっ、矢島? ご、ごめんね、なんか突然連絡しちゃって、やっぱりダメだよね、私返信ないから、やっぱりなんか突然すぎたかなってもう、なんだか、もうあの」
 彼女がテンパりすぎて支離滅裂なことを言い続けるので、それを諌めるのにやや苦労した。ひとまず彼女を落ち着かせることに成功すると、どうやら彼女も僕 からの返事がなかったため家にいるらしい、ということがわかった。僕は彼女に食事をすることは構わないこと、ただ、今からだと間に合いそうにないので、時 間を遅くしてもらうことを頼むと彼女は快く了解してくれた。
「それじゃ一時にハチ公前ねっ、楽しみにしてる!」
 その言葉を最後に彼女との電話は終わった。と、なると着替えなくてはならない。僕は洗濯したまま積んであるティーシャツの山から適当なやつと、シワにな ると怒られるからちゃんとたたんであるシャツの地層から最近買った水色のシャツを取り出した。パンツはベージュのチノパンにしようと、これまた綺麗にたた んであるズボンの地層から目的の物を取り出した。こういうふうにきちんとたたんであるのも前の彼女の影響で、それを貫き通している自分は女々しいとも思う し、生活習慣として根付いてしまっているのだから仕方ないと思う自分もいる。いずれにしても誰かが僕を塗り替えてくれると楽になるのだけれど。思わずそう 思ってしまった。
 寝巻きを脱ぎ捨てて先ほど取り出した服に着替えると、すっかりよそ行きの自分に早変わりだ。中学生の頃は洋服の着こなし、なんてものは全くわからなかっ たので正直ダサかったと思う。ようやくお洒落なんてものに目覚めたのは大学二年生になった頃で、それも前の彼女を捕まえるためだった。彼女と付き合うため にそれなりに努力をしてきたんだけどなぁ、とまた感傷に浸ってしまう。このあと予定がなければ別にそのまま感傷に浸っていてもよいのだけれど、いかんせん 今日はそういうわけにはいかない。出かけるために着替えたのに、それを無駄にするのは嫌な性分なのだ。
 外にいったん出たけれど少し肌寒かったので、紺色のカーディガンを羽織ってもう一度外へ出た。僕の住んでいるマンションは駅まで五分とかからない。近くの駅に快速が止まらないことぐらいが欠点でわりと便利な場所ではある。家賃も安いし。
 線路沿いを駅まで一人で歩いていると、少しおしゃれなカフェが見えてきてやっぱり僕は切なくなる。この場所も彼女と行ったから。確かモンブランが美味し かった。口の中に広がる甘さを思い出しながら、その前を通り過ぎるともう駅にたどり着く。乗りたかった電車はちょうど良くホームに滑り込んできたところ だった。たまにはこういう運がいいこともあるのだ、この僕にも。

*****

 渋谷駅は相変わらず人が多かった。昔、ハチ公前に行くのに看板の指示通りに進んでいたら元の場所に戻っていたことを思い出す。今では、なんなくたどり着 けるハチ公前に待ち合わせの十分前にたどり着いた。ごみのようにうじゃうじゃしていて、人を探すのが苦手なタイプの人間である自分はうんざりしてしまう。 しかも、会う相手は成人式で見かけて以来全く会ってもいない人間なのだ。僕が見つけられるはずがない。うんざりしてしまって、携帯に視線を落とすと、ちょ うど着信があったところだった。
「ごめん、今ついたよー! どの辺りにいる?」
 そう聞かれたので僕は緑の電車のすぐ近くにいることにして、服装の特徴だけ伝えた。町田はライトブルーのワンピースにカーディガンを羽織っているらしい。それらしい人影がいないか周りの見渡していると、後ろから突然肩を叩かれた。
「矢島久しぶりー! ごめんね、何か突然呼び出してさっ、なんかアドレス帳整理してたら久しぶりに話したいなって思って。迷惑かな、なんて思ったんだけどでも、矢島って、ほらいいやつじゃん? だから大丈夫だろうと思ったら、やっぱり大丈夫だったから安心しちゃったよ!」
 会った途端にそうまくしたてる彼女は中学生の時代から比べると、とても綺麗に成長していた。おかっぱだった髪の毛はその頃より伸びたセミロングで可愛ら しい栗色になっていた。太っている、と言われていた体型も服装のせいなのかそれともダイエットの賜物なのか、それほど気になることはなかった。顔もなかな か美人になっていたかと思う。もしかしたら化粧を覚えただけなのかもしれないけれど、化粧でそれほど変わるのであればそれも否定できたものではないだろ う。まぁ、いずれにせよ、一緒に歩いていてそれなりに誇れる可愛らしい女性になっていた。性格もむかしより女性らしくなったのかもしれない。確か男勝り だった覚えがあるのだが、目の前にいる町田にそんなイメージはなく、表情がコロコロ変わる可愛らしい女性だった。
「ん、どうした、黙り込んじゃって? あっ、やっぱりもしかして迷惑だった?」
 僕が黙り込んでいると、町田は僕の表情をうかがってきた。こんな不安そうな彼女の表情は記憶にない。そもそもその記憶が薄れかかっているから、いろいろ疑わしいところがあるんだけど。
「いや、とても可愛くなってて驚いたから、黙り込んじゃったよ。あと、特に迷惑だとも思ってないよ。どうせ暇だったし」
 そう言うと、矢島こそ口がうまくなったじゃない、と町田ははにかんだ。とりあえず、ご飯に行こうか、という話になって、飲食店は何があったかな、と考え る。近くにおいしいラーメン屋さんがあるにはあるのだけれど、流石にワンピース姿の女性を連れて行くのも悪いし、と思っていると近くにそれなりのハンバー グが食べれるところがあることを思い出した。そこでもいいかと彼女に聞くと、高くなければ、というので、とりあえずそこに行くことにした。
 ハチ公から五分も歩かない場所にあるそのお店は最近チェーン展開を始めたらしく、ここ以外でもいくつかみかけたことはあるがそれもだいたい都内である。 内装はちょっと小洒落たカフェみたいなもので、それほど高級感もなく、かと言って安っぽいわけでもない。ちょうどお昼時だからか店内はかなり混み合ってい て、並んでいる人もそれなりにいた。ただ、ちょうど入れ替わる時だったのか、十五分もかからないで案内された。
 注文はメニュー冊子とは別に渡された一枚紙に書かれているランチセットにすることに決めたので、目の前にいる町田を眺めていることにした。彼女はメ ニュー全体を眺めた後、思案顔であれにしようか、これにしようかとページを行ったり来たりしている。その表情をしばらく観察していると町田はどうやらその ことに気づいたようで、ご、ごめんね、優柔不断で、などとさらに慌ただしくメニューをめくっては戻し、めくっては戻しを繰り返す。別に不機嫌なわけではな いし、急かしているわけでもないと言おうとすると、彼女はそれを制するようによし決めた、と店員に声をかける。結局彼女はアボガドと何かのハンバーグにす るらしい。僕は先ほどから決めていたランチセットを注文する。
「ごめんね、お待たせしちゃって。私、優柔不断でさ。怒ってない?」
 店員が注文を通しにキッチンの方へと消えていくと、彼女は僕に向かって小動物のような目を向けてそう言った。なぜ彼女は僕が怒っていると思っているのだ ろうか。メニューで迷ってなかなか決められないなんて誰にでもよくあることだし、別に怒ったような表情はしていないつもりなのだけれど。普段からニコニコ しているね、と言われているはずの僕の顔が仏頂面なのだろうか。いや、まぁ、いずれにせよお互いが気を使った状態でする食事なんてものは、味がしなくて楽 しい時間ではない。多少はギャップを埋めようとなにかてきとうな会話をすることにした。
 初めは彼女がいやにテンパりうまく意思疎通ができなかったが、五分もすると少し落ち着いてきたのか、ようやく彼女が今どういう状況なのかわかってきた。 いわく、中学校を卒業した後は女子高に進学したそうだ。そして二年制の専門学校を卒業した後に、一年就職浪人をして、今は派遣で食いつないでいるらしい。 あんまり高いところでなければ、と言っていたのはそういう事情なのだろう。自分の職業のことを話す町田の顔には少し影がさしているような気がして、そのこ とについてはあまり深く追求しない方が良さそうだった。まぁ、基本的にきちんと就職していなければ恥ずかしい、なんて文化のある日本だから仕方ないのだろ う。雇用に流動性のある国だったら別なのにな、とも思ったが、そんなことを思っても仕方ない。
 彼女の話を聞いているうちに、料理が届いて、とりあえず食べることにした。ハンバーグステーキの周りにベーコンが巻いてあって、付け合わせは丸のままの じゃがいもと、トマトだった。一口食べると口の中に肉の旨味が広がり、幸せな気持ちになった。町田の方を見ると彼女も肉の旨味に舌鼓をうっているようで、 店のセレクトに間違いがなかったことに少し安心した。
 食べているうちに今度は僕の方が町田に質問責めにされることになった。普通に勉強して、それなりの大学にいって、それなりに勉強して公務員になった、っ ていうだけの話なのに彼女が興味深げに話を聞くところはなんとなく印象的だった。まぁ、だからと言ってそういう話が長引くわけでもなく、町田もやはり女子 だからか恋愛の話を根掘り葉掘り聞いてくる。ここに向かう途中ですらもややセンチメンタルになっている僕としては、あんまり好きこのんで話したいという話 題でもないのだけれど、特段隠す必要があることでもないので、とりあえず三ヶ月前に振られた話くらいはしておくことにした。それを聞いた町田は目を見開い て驚いた表情を見せて「矢島に、彼女が、いたの?」と聞き返した。思わず、少し不機嫌な声でそれは失礼じゃないか、と返してしまう。そうすると、町田はま た、申し訳ない声でごめんね、と返すのだ。付け加えて、私が知っている矢島じゃないんだものね、とも言う。
 なんだか悪い空気になってしまったのを断ち切りたくて、店を出て会計を済ませることにした。会計は僕が持った。町田ももちろん会計を出そうとしたのだけ れど、今日は楽しかったから、と言って僕はそれを受け取らなかった。そうすると、彼女はうーっ、と唸ったあとしばらく考え込んで
「そ、そしたら次! そしたら次に遊んだ時私が出すから! このままじゃ、私の気が済まない!」
 そう、大きな声で叫んだ。別に僕としてはどう思っていようと、女性と食事する時はなるべく自分が出すようにしているから、構わなかったのだけれど。でも彼女が頑としてそう言い張るので、頷いておいた。
 駅前まで歩いている時も、彼女は僕に気を使っていた。怒らせていないか心配しているようで、そこまで気にすることないのに、と僕は思った。確かに中学生 お頃の僕はダサかったし、お世辞にもかっこいいとは言えなかったから。けれど、これでもそれなりに努力して、今では雰囲気イケメンの地位を手にいれたとは 思っているので、すこしだけ不機嫌になってしまっただけだ。
 駅前までたどり着くと、町田はそれじゃここで、と立ち止まった。どうやら一人暮らしをしているらしくて、駅前までくる必要はなかったらしい。
「途中で別れてくれてもよかったのに」
「んー、でも今日は楽しかったから、もう少し話してたかったんだよね」
 自分と同じこと言われてしまっては、立つ瀬がない。それじゃ仕方ないね、と苦笑いして手を振って別れた。僕が見えなくなるまで、彼女は手を振っていた。そこまですることはないのに。

*****

 危うく寝過ごすところだった。最寄り駅を降りて、一息つく。人がほとんどいないホームからエスカレーターで改札へと降りて行く。もう高校生が出歩いてい ては補導されるような時間だっていうのに蝉が騒がしく鳴き、今日の寝苦しさを想像して辟易してしまう。帰路を歩いていると、携帯がメッセージの着信を知ら せた。誰だこんな時間に、と思うと、それは町田からだった。
 結局、あの久しぶりの誘いから彼女とは何回か食事をしたり、飲みに行ったりしていた。どうやら懐かれたらしく、こうやって時々遊びの誘いのメールがくる ようになった。やっぱりそのメールも遊びの誘いで、「来週の金曜日、夕食でもどうですか?」とのことだった。ここ最近忙しかった仕事を片付けたばかりで残 業の予定も大してなかった気がする。了解、とだけ書いたメッセージを返信して、道すがらのスーパーへと立ち寄った。今朝、朝食のグラノーラが切れてしまっ たからだ。気怠いいらっしゃいませを右から左に受け流しながら、右奥の棚へと足を向ける。お目当てのものを一袋手に取り、さっさとレジに向かう。買い物に 時間をかける必要なんてないのだ。そう思って、財布から紙幣を出そうとしたところで、突然声がかかった。
「いっつも、同じの買ってますよねー、お兄さんこれ好きなんですか?」
 それは正面にいるレジの店員の声で、まさかそこから声がかかってくるとは思いもよらなかったので、少し狼狽してしまった。
「あっ、すいません、突然。でもお兄さんいつもこれ買ってくでしょ? よっぽど好きなのかなぁ、って思って。飽きるでしょ、同じのばっかり食べてたら。い やー、ずっと気になってていつか聞こう、いつか聞こうと思ってたんですけどね、いつもだいたい忙しくて。今日たまたま暇な時にお兄さんきたから、つい、 ね」
 そう言って、ちろっと舌を出すと三百円です、と値段を口にする。千円札を渡すと、はい、七百円のお返しです、いつもありがとうございますっ、とマニュア ルとは少し違う挨拶で僕を見送ってくれた。僕が店を出る時にはまた、きてくださいねー、というお見送りの言葉までついて少し恥ずかしいくらいだ。
 少し気を紛らわしたくて、ポケットから携帯電話を取り出すと、町田から返信があった。待ち合わせ場所と時間の指定だった。適当に確認して、『了解、楽し みにしてる』と返事をすると、すぐに『私も楽しみっ』と返事がきた。少しだけ心がうきうきする。それでいいのかは、わからないけれど。

*****

『ごめん、急に残業入っちゃって時間に遅れそうです。申し訳ないけれど、スタバかどこかで時間潰しておいてくれますか?』
 そんなメールが入ってきたのは僕が退勤してから三十分後くらいで、すでに待ち合わせ場所の渋谷に向かう電車に乗ってしまった後だった。今更引き返しても 家に帰ってすぐに引き返す、なんてあほなことをしなくてはならない時間だったので、そのまま渋谷に向かうことにする。車窓か外を見ると、積乱雲がもうもう と立ち昇っている。一雨きそうだ。移動中に降らなきゃいいんだけど。まだ定時直後だからか車内にはあまり僕みたいなサラリーマンはいない。金曜日だから飲 み会でもあるのだろう。むしろ目立つのは学生の方で、制服をきてキャッキャしている高校生とか、これからどこかに行くように見える大学生のカップルとか、 そういうまだ社会に出ていない目を輝かせた人の方が多い。ほんの少し前までは僕もあそこにいて彼女と笑いあっていたかと思うと、時間というものが経つのは 恐ろしく早いし、人生というものは何が起こるかさっぱりわからない。これからもああいう風に笑いあっているものだと思い込んでいたのも懐かしい。
 そういうふうに考えていると、僕も感傷に浸るのもいい加減にして、前に進むべきなのだろうか、と思ってしまう。少なくとも、町田は僕に対してわりと大き めの好意を抱いていることはまぁ、間違いないと思う。僕もそんなに彼女に対して悪い感情を抱いているわけではない。いっそのことこのまま、付き合うのも悪 くないのかもしれないかな、と思う。彼女が僕を塗り替えてくれれば良い。僕が彼女にしていたように、また町田に依存すれば良い。ただ、それだけのことだ。 それをするだけで僕は電車に乗っているカップルを見るだけで切なくなったりしない。駅前の喫茶店を見ただけで泣きそうになったりしない。朝ごはんは食パン になる。忘れずに爪も切れる。シンプルでいい。誰にも迷惑をかけずに幸せになれる。
 気付くと、環状線の緑の電車は目的地についていて、僕は慌てて電車を降りた。相変わらず人は嫌になるほど多くて、とりあえず喫茶店に逃げ込むことにし た。入ったお店はパンケーキが有名なお店らしく、周りに習って僕も同じものを食べることにした。パンケーキの待ち時間が存外に長くて、店内の様子を眺めて いると、僕と同じワイシャツ姿の男の一人客が多いことに気づく。ある人はパソコンに向かい合って難しい顔をしている。ある人は携帯電話に見ながらニコニコ している。ある人は分厚い専門書のようなものとにらめっこしている。少なくとも僕の目の中に映る人は、嫌々かもしれないけれど、そうやって何かをして一生 懸命生きているように見えた。僕もなんだか、頑張らなくてはならないのかな、という気になった。さしあたりは町田との関係とか。
 けれど、僕という人間は恋愛の駆け引きなんてものはとても苦手で、前の彼女だって四苦八苦して捕まえたのだ。付き合う前に限ってはほぼ童貞とかわりがな いと言っても過言ではない。付き合ってからのイチャイチャとかなら免許皆伝と言っても差し支えないのだけれど。いずれにしても、なにかしらのきっかけがな いと、前には進めないような気がする。なんというか、苦手なのだ女の子と話すのは。
 ああでもない、こうでもないと町田との仲を進展させる方法を考えているうちに、パンケーキがテーブルへと運ばれてきた。パンケーキの熱で溶けかけている バターを全面に塗ると、乳製品独特の香りが鼻へと届く。そこに思いっきりメープルシロップをかけると、幸せの海が皿へと広がった。ナイフで四等分して、切 り分けたものを大きく一口で食べてしまう。口の中にはふわふわの食感とメープルシロップの甘みが広がる。これは有名になるなと、思ったところで本当に悔し いことにこのお店も彼女が話していたことを思い出すのだ。あぁ、本当に恐ろしい呪縛のように僕にまとわり付いて離れない。少しでも前に進むべきなのかもし れないと思った直後でこれなのだから、誰にも救いようがないほどに僕は馬鹿だ。自分自身に対する劣等感で暗い気持ちになりながら、僕はゆっくりと、ゆっく りと、パンケーキを食べ進めた。悔しいほどに美味しいのに、喉に詰まってなかなか飲み込めなかった。
 町田がやってきたのは本来の待ち合わせ時間の一時間後で、結局彼女が来る前に僕はパンケーキを食べきることはできなかった。七時も三十分ほど過ぎてすっ かり暗くなった街では居酒屋の客引きが騒がしい。他にも大学生とか、派手な格好をした年齢不詳の女性だとか、よくわからないコスプレをした外国人だとかが 雑多に僕の前後左右を四方八方に突き進んでいく。今日の町田はホットパンツに薄手のピンクのパーカー、それなり大きなデイバックというわりと活動的な格好 をしていた。
「もう暑くなってきちゃったからね、機能性重視!」
 今日の格好について彼女に茶々を入れると、大きくVサインを出して町田は笑った。残業だったんじゃないのか、と聞くとスーツは暑苦しいので会社で着替え ているらしい。なるほど、男もそうしてくれれば涼しいのにな、と笑うと町田はワイシャツ似合ってるしいいと思うけどな、と少し照れながら笑った。似合って るとかそういうのじゃなくて、ただ暑いだけなんだけどな、と僕は笑い返す。そこで突然、ところで、と彼女は自分の太ももを軽く叩いて僕に話を切り出した。
「今日は行きたいお店があるから、そこでも平気? わりと女の子、というかおしゃれなお店でもしかしたら矢島は居づらいかもしれないんだけど」
 特に行きたいというお店がなかったので、僕はその提案を了承した。町田も女性だからおしゃれなお店で食事をしたいという気持ちはよくわかるし、僕自身も そういうお店が嫌いではない。なんというか、こ洒落たお店を知っているのは、わりとステータスではないだろうか。かっこつけだけれども。町田がずんずん歩 いて行くのに付き従って渋谷の街を進んでいく。人と、ヒートアイランド現象とかいうのと、アスファルトの照り返しで、夜になったとはいえ、歩けば歩くほど 汗が止まらない。西武を左手に進んでいくと、町田は今日の仕事の愚痴を話し始めた。課長がどうのだの、先輩がどうのだの。正直僕は記憶力がないのでそれが 前にも話題に上がった人なのか、それとも今日はじめて会話に上がる人なのかわからない。けれど、まぁ、色々不満を抱えながらも働いていることだけはわか る。だから「町田は頑張ってるよ、お疲れ様」と頭を軽く叩いてやると、彼女は少しきょとんとした後、ありがと、と小さな声で言って、急に歩みを早めた。ど うしたの、急にと聞くと知らないもーん、と彼女は人の間を縫って駆け出し始める。このたくさん人がいる中で置いて行かれてはどうしようもないので、僕もそ れを追いかけるために足の速度をあげる。しばらく彼女を追いかけていると、彼女は少し狭い路地のようなところで右に折れた。僕も同じ角で道を曲がると、彼 女の姿は見えなくなっていた。あれ、と思って周りを見渡そうとすると、後ろから「わっ!」と急に声がかかった。僕は驚いて後ろを見ると、案の定町田がそこ に立っていた。僕の驚いた顔が相当面白かったのか彼女は大きな声で笑いながらごめんね、と全く謝罪の意味合いを感じない言葉を僕に投げた。そのまま笑いな がら歩く彼女の横について歩くと、すぐに目的地に着いた。
 確かにそこはかなりおしゃれなお店で、確実に僕一人じゃ入らないようなお店だった。店内にはいるとそこは例えるならばおもちゃ箱やオルゴールのような内 装をしていて、なんだか少しだけ子供に戻ったような気がする。ドレッドヘアーの店員に案内されて二段ベッドの上のような席に案内された。
「えへー、おしゃれでしょ! ここね、一回来てみたかったんだけど、なんだか一人で来るのは気が引けちゃって」
 そう言って彼女は店内をグルグルと見回した。その目は安直な表現だけれどもキラキラしていて、それこそ美しいオルゴールを見て目を輝かせる少女のよう だった。正直なところ居心地がとてもよいかというと別の話だけれども、彼女が喜んでいるなら、まぁこの店に来たのも悪くはないかもしれない。僕は黒糖ビ アーなんていう飲んだことのないものがあったからそれを、彼女は夏らしくモヒートを注文した。思ったよりも料理が美味しくて、お酒も進む。彼女は相変わら ず仕事の愚痴ばかり話して、僕はそれを適当に聞く、というパターンだったけれど、それもまぁ、別に嫌いでもなかったし、酔ってしまってはそういう話も普段 より簡単に聞き流せる。
 二時間もしたところで、わりとお腹もいっぱいになったしお開きということになった。店を出て、きた道を歩いていると、向かい側から何人かが走ってきて、 僕たちの後ろへと消えていく。何事かと、不思議に思って二人で首をかしげていると、すぐにその理由がわかった。僕達の前から雨が降ってきた。それも豪雨。 先ほどの人達はこれから逃げていたんだろう。気付くのが遅かった僕と彼女は一瞬にしてずぶ濡れになってしまう。慌てて屋根があるところに避難したけれど、 それが意味が無いくらいにお互いに濡れてしまっていたし、雨がいつ止むかも定かではなかった。そこで、参ったなぁ、と呟いて空を見上げる僕に彼女はこう 言ったのだった。
「……ここから、うち近いんだけど、くる?」

*****

 彼女の家は築十年くらいのアパートで塗装が剥がれ落ちている、なんてことはなかった。残念ながら、なのかはわからないけれどオートロックなんて洒落たも のはなくて、彼女の部屋の前まで歩いて行くだけでたどり着いてしまう。ドアの前に立つと、町田はこちらに振り返ってストップと右手を僕の方に向けた。
「ちょっとだけ、片付けたいからすこーしだけ待ってくれる? バスタオル持ってくるから体だけ拭いてて」
「わかった」
 ん、ごめんね。そう言って町田は靴を脱いで部屋の中へと消えていった。シャツとズボンが肌にくっついてうっとおしい。その上、温度が高いくせに湿度も高 いもんだから、雨で濡れている上に更に汗までかいてくる。これぞ日本の夏というものだろうか。耳には外で降っている雨の音が騒がしい。町田が部屋に入って すぐにまたドアが開いて、はい、これ。と町田が白いバスタオルを渡してくれた。僕がそれを受け取ると、ごめんね、すぐに済ませるから、とまた部屋の中へと 引っ込んだ。受け取ったバスタオルは自分の家のものよりも大きくて、髪の毛を覆うようにバスタオルをかぶると、じわっとバスタオルが水を吸い込む音がする ような気がした。そして、ワイシャツの腕をまくり、拭けるところだけ拭いていると五分もしないうちに目の前のドアから町田の顔が飛び出してきた。
「ごめん、おまたせ。いいよ、入って」
 遠慮無く、彼女の部屋に上がらせてもらうとそこは八畳くらいのワンルームだった。玄関のすぐ横にはシンクとコンロがあった。右側には扉があって、そこは 多分トイレか風呂場なのだろう。あるいはどっちかか。久しぶりに人の部屋に上がった物珍しさとか、なんとなく町田の部屋に上がるのが不思議な感じがして少 しぼーっとしていたら女の子の部屋をそんなにジロジロ見ないの! と背中を押されて、部屋の中央まで連れて行かれた。そこには、白いティーシャツと、グ レーのジャージのズボンがおいてある。なるほど、わざわざ用意してくれたのか、と思いその場でワイシャツを脱ごうとすると、慌てて町田にそれを止められ る。
「ちょちょちょ、確かにそれは矢島のために用意したんだけど、いきなり、されると、あのちょっと恥ずかしいから、あの、とりあえず私お風呂場で着替えるから、私がそっちに行ってからにしてください……」
 私のだからちょっと小さいと思うけど、我慢してね、と言って町田は風呂場に向かった。なるほど、着てみると確かにズボンの丈が五センチくらい短くて、半 分くらいすねが出ている。ティーシャツはそんなこともなかったのだが。濡れた服はこれもまた町田が用意してくれたらしいかごに入れておいた。勝手に部屋を 漁るのも悪いので、とりあえず、部屋の中を見てみることにした。とあまり大きい部屋でもないので、あっという間に見終わってしまうのだが。
 まず窓際、僕の背中の方にはベッドがある。もちろんシングルサイズだ。続いて左手には小さなテレビ、その奥には本棚がおいてある。殆どカバーがかけて あって、どんな本を読んでいるかはわからなかった。右側にはハンガーをかけるためのやつと、カラーボックスがいくつかおいてあってその中には雑多にものが 積まれている。その奥にはキッチン、そして先ほど入ってきたこの部屋の入口がある。色合いは薄い緑色っぽい感じで、なんとなく落ち着く。カラーセラピーと かいうのもあながち嘘ではないのかもしれない。
 流石に冷房はつけても平気だと思って勝手に冷房のスイッチを入れると、ブオーと音がして部屋を冷やすためにエアコンが動き始めた。その音の背景に水音が 聞こえることに気づいた。どうやら町田がシャワーでも浴びているらしい。汗もかいたし、仕方ないだろう。しかし、手持ち無沙汰だ。部屋の中を見回しても大 した発見はもうないだろうし、どうしたらよいのだろうか。仕方なく、ベッドに背中を預ける。しかし、その後どうすればよいのだろうか。雨はいつ降り止むか わからないし、そもそも着て帰れるような服はない。幸い今日は金曜日で明日は休みなので、無理に帰らなくてもいいのだけれど、それはなんとなく彼女に申し 訳ない。どうしたものか、と考えこんでいると町田が風呂場から出てきた。バスタオルを頭にあてて髪を乾かしている。なにか飲むか、と聞かれたので冷たいも のを頼むと、冷蔵庫から麦茶を取り出し町田は僕の左隣に腰掛けた。はい、麦茶で悪いけど、と手渡されて飲んだ麦茶はとても冷えていて、冷房が効き始めた部 屋には冷たすぎるくらいだったけれど、喉を潤すには十分だった。町田は僕の隣に腰掛けた後、何も喋らずただ麦茶を飲んでいるだけで、なんとなく気まずいよ うな、かと言って話し始めるのもなんだか違うような時間が流れる。耳に聞こえるのは麦茶をいれたグラスの氷が溶ける音とエアコンの駆動音。それと更に強く なったここに来る原因の雨の音くらいである。と、そんな時間がずっと続くのかと思っていたその時に、ふと体の左側に暖かさを重みを感じた。町田が僕にもた れかかってきた。その暖かさと重みに、急に自分の体温が上がり、心拍数もほんのすこし速度を増した。
「……あったかい」
 町田はそう呟くと、更に僕に体を預けてくる。体の左側に感じる暖かさは更に強くなって僕を侵略してくる。触れられた僕が熱くなると、触れてきた町田も熱 くなって、僕の左腕と町田の右腕の境界線が曖昧になってきて、このままなにか別の生き物になってしまうのではないだろうか、と思ってしまう。このままゆっ くり時間が進んでくれればいい、と思ったところで、僕の左腕に感じた温かみは急に失われる。町田が僕にもたれかかるのをやめて、また、まっすぐに座った。 残念に思う気持ちとほっとする気持ちとが混在している僕に町田は「あのね、言っていいかな」と、口を開いた。どうぞ、と促したけれど彼女は体育座りをして 膝に顔をうずめたり、うなったりしているだけでなかなか目的の言葉を口に出したりしなかった。無駄に麦茶の入っていたグラスを回す以外に時間を潰す時間の ない僕はぼーっと天井の証明を見つめる。久しぶりに見る丸い蛍光灯だった。あのね、あのね、と彼女が繰り返すので、僕は耳を彼女の声に傾ける。
「あのね、うん、もうわかってると思うんだけど。私は、あなたのことが好きです」
 彼女のかすれた声は僕の耳にはそういうように聞こえた。思わず、えっ、と聞き返してしまうと、彼女はだから、好きだって言ってんの! と大きな声で叫ん だ。僕の隣に座ったのはこのためだったのだろうか。彼女の方に視線に向けると、視界に入ってきたのは耳まで真っ赤になり、目を固くつむって、ティーシャツ の裾を震える手で握りしめた町田の姿でいつもの彼女の元気な姿はどこかに言ってしまったようだった。そしな頬を林檎のように染め、なにが起きても耐えれる ように目をつむり、ティーシャツの裾を掴んだ手が緊張のあまり震えている、そんな彼女の姿に、僕の返事を待っているその姿に、僕はどうしようもなく欲情し てしまった。汚したいと思った。
 僕は返事をする代わりに、町田の顔をこちら側に向けて、躊躇すること無く、キスをした。驚きのあまり彼女は目を見開いたが、僕が彼女の口内に舌を推し進 めると、また目をつむり僕の唾液を求めて激しく舌を絡めてきた。しばらくそうしてお互いを求めていると、流石に息が続かなくなったのか町田は僕の唇から顔 を離し、息を荒らげていた。肩を上下させ、顔が赤く染まっているのには先ほどの照れだけではなく、他の感情が見え隠れしているように思えた。
「ごめん、我慢できないよ?」
 そうやって町田に聞くと彼女は僕から顔をそらし聞かないで、と弱々しく答えた。僕はもう一度彼女の唇を貪り食らう。柔らかな舌の触感が口の中に広がる。 それを嫌になる程味わった後、彼女の頭を優しく撫でる。とろんとした顔で彼女は僕を見つめたかと思うと、急に立ち上がり、ベッドに座り込んだ。
「……いいよ、きて?」
 僕は彼女の上半身をベッドに押し倒して、そのまま何度も彼女を求めた。キスに感じた違和に気づかないふりをしたまま。

*****

 目が覚めると右側がやけに暖かかった。右隣に町田がいるからそれは当たり前なのだけれど、そういうぬくもりの感じ方は僕にとっては久しぶりで、彼女とこ んなこと何度もしたな、と思い出す。町田はあまりにも気持ち良さそうに眠っていたので、起こすのも申し訳なくて、しばらく顔を眺めていることにした。顔を 眺めながら考えているのが、町田のことではなくて、彼女のことである僕に嫌気がさす。いいわけがましいけど、町田のことが嫌いなわけでもなくて、むしろ好 きな方ではある。昨夜の最中に町田に彼女を重ね合わせていたわけではない。けれど、今こうしている僕考えているのは町田のことではなくて、彼女、大好き だった彼女のことだ。そう、結局のところ、僕は町田が好きではなかったのだろう。
 僕がこの場からすぐにでも帰りたいと思っていること、昨夜したキスに覚えた違和感がそれのなによりの証拠なんだと思う。僕がいるべき場所はここではな い。僕は彼女にしたように、町田に寄りかかることができない。心地よい居場所がない。どこを探しても、町田の隣には座れない。こういうことをしてからこん なことをいうのは、最低のことかもしれない。けれど、繋がってから気づくこともあるというのは本当のことだったようだ。たった今、確信してしまった。でき ることなら今すぐにでもこの場所から離れたいけれど、そうしてしまったら、町田は今の僕みたいな人間になってしまうかもしれない。だからゆっくりと、なる べく傷つけないように離れていくしかないんだと思う。繋がったその後で離れていくことしか考えていない僕は恐ろしく残酷なのかもしれない。
 しばらくそうして考え事をしていると右側がモゾモゾする。町田が起きたらしい。おはよ、と僕が声を掛けると、町田は顔を赤らめながら僕におはよう、と返 事をした。その姿は可愛らしかったけれども、僕にトキメキを覚えさせることはなかった。町田はしばらく僕の顔を覗き込んでなにか考え込む表情を見せたあ と、あのね、と話し始めた。その話を端的にまとめるしまうと、どうやら僕はずっと片思いされていたらしい。他にも色々な話をしていたけれど、ほんの少しの 驚き、大半を占める面倒臭さ、それとどうでもよさであまり脳みその中には残っていない。適当な相づちを打ちながらしばらく聞き流していたその話は町田のお 腹がなったことで、中断された。えへへ、と照れ臭そうに町田は笑い、ご飯作るね、と僕の隣を抜け出した。
 どうしてだかわからないけれど、町田はいわゆる裸エプロンでキッチンに向かった。それを見ながら僕は布団のなかでグダグダしている。流石に裸エプロンで 朝食を作る女性を見るのは初体験だな、と思っていると、いわゆる男の夢であろうネギを包丁でリズミカルに切る音がしてくる。味噌汁と、香ばしく焼ける魚の 匂いがして、僕の胃袋も音を立ててしまった。その音が聞こえたのか町田はもうすぐできるから、服でも着て待ってて、と僕に声をかける。いう通りにパンツと ティーシャツを着てテーブルの前に座っていると、僕の目の前には、白米、味噌汁、鮭の塩焼きと沢庵が並べられて、正面には町田が座った。
「いただきます」
 そう言って、食事を始めた。僕にとっては本当に久しぶりの和食の朝食で、食べられるか正直不安だったけれども、食べ始めると意外に食べられてしまうものだった。
「今日はこれからどうしようか?」
「んー、どうしようかね」
 そう言って飲む味噌汁はわりと美味しかった。多分しばらくは食べないけれど。

*****

 結局なんだかんだ町田に引きとめられて、最寄りの駅についたのは、もう夜のことだった。朝食が切れそうだったことを思い出して、いつものスーパーに入る と、この間声をかけてきた店員がいた。僕が店にきたことに気づくと、手を振ってきた。なんでそうなったかもわからないし、接客としていいのだろうか、とは 思うのだけれど、小さく手を振り返しておく。明日の朝食を何にしようかとぐるっと店内を回って、少しだけ迷った後レジへと向かった。
「こんばんはー、お兄さん。またいつものなんですか? 言っちゃいますけど、よく飽きませんね、それ。この間も言ったけど」
「まぁ、ね。同じように言ってしまうけど、君がバイトを続けている間は、いや、多分君がバイトを辞めてからも、ついでにこの店が潰れても、僕はこれを買う んじゃないかな。こればっかりはもうどうしようもないんだろうなって思うんだよね。もう離れられなくて、どうしようもない、本当に。世の中何があるかわか らないし、僕の人生には色々とこれからもあると思うけれど、これくらいは許してくれるかなって思うんだよね」
「えっ、なんか突然長く話してくれちゃって私びっくりです。で、許してくれるって、誰がです?」
「それは内緒」
 ごめん、またね、と店をあとにすると、はーい、またー! と元気な声が背中に返ってくる。
 結局、情けないことに僕は朝食を変えられなかった。誰かが変えてくれるのを待つしかない。いつか毎朝和食を食べる日はくるのだろうか。
「やっぱりダメだったな」
 そうつぶやく僕の翌日の朝食は結局いつも通りだったし、お昼には一人でモンブランを食べに行った。
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