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● 我が胸に鳴る  ●

「ごめんなさい、別れてください」
 このような台詞を女性から聞くのは何回目だろうか、と脳内の歴史を辿り恋なんてものを考えもしなかった幼稚園時代まで遡ったところで私は七回目だ、と自分に言い聞かせる。それだけの回数特定の女性と交際関係になり、そして別れ、疎遠になるという行動を繰り返したのだ。
「……うん、わかりました。今まで楽しかったよ。ありがとう」
 そう言って、それじゃと彼女を背に歩き出す。この台詞も何度目だろう、と私の記憶をもう一度掘り返すと、六回目であると記憶が私に囁いてくる。つまりただ一回を除いては、別れを告げられると、微塵の未練も残すこともなくその女性の下を去り、そして日常へと帰っていくことの繰り返し。そしてまたどこかで魅力的だと感じる女性を見つけて、光源氏のように何気ないながらも大胆なアプローチ(彼が実際にそうしていたかは知らない)を心がけ、女性を口説き落とし、半年もすればクリアしたRPGのように飽きられ、また日常へと回帰していく。
 そんな、日々のローテーション。決まりきったシフト移行。
 そんな風に恋愛をまるで画面の向こうで繰り広げられるドラマのように感じるようになってしまったのは何故だろう。正確を期すならば、恋愛に現実を、感覚を、胸の高まりを、つまりは自分自身の感情を感じなくなってしまったのはいつだろう。
 そんなのはわかっている。わかりすぎていて、今更過ぎて自分に問いかけることもない。
 私は、彼女を忘れられないのだ。
 唯一、醜く、浅ましく、そして必死になりながら、振られても、拒絶されても、もう二度とあいまみえることがなくても、私の心の奥深くに樹齢五百年はある大樹のように強く根を張り続けている彼女。
 私の思いは、心は、感情は、彼女がいた五年前で止まっている。高等教育と称しながら一度も高等教育だと感じたことのないあの頃。木苺のような初恋が終わり、新しい世界に眼を輝かせながら向かった新しい学び舎での、私の通算二人目の恋人。だから今の恋愛にリアルを感じない。何も感じない。自分以外の誰かが自分の役で笑ったり、泣いたり、デートをしたり、キスをしたり、セックスをしたり。そういうふうにしか思えないのだ。
 そのとき、ポケットにしまっていた携帯電話がすれ違う人たちの半分が振り向くであろう音量で鳴り始める。母親からのメールを告げる着信音を鳴らしているのは高校生になる直前に買って、そのまま使い続けている携帯。
 使い始めの頃は全員の着信音を分けていた。母親のからのメールだとわかったのはその名残である。そんなめんどくさい事は高校生になり学年の人数が今までの四倍程度に増えた瞬間から投げ出すことにしたのだが。
 だが。彼女だけは違う。私の胸に眼前の海のようにただ存在し続ける彼女からの連絡だけは。
 そうして、思いをはせる。あの頃に。


 彼女と会話をするきっかけになったのは、その当時流行っていた深夜アニメの話だった。私は恥ずかしげもなくそのアニメの下敷きなぞを使っていたところを彼女に見られてしまったのだ。彼女は明らかにそういった物よりもファッション誌や友人との交流を楽しむような類の人間だとその頃の私は決め込んでいたので、しまった、という思いが脳裏を掠めた。
 そういった所謂陰気な趣味をしているからといってイジメに発展するような学校でもなかったのだがやはり女性----しかもそういったものに比較的嫌悪感を抱いているような手合いの----に見られて気分が高揚するなんて事はないだろう。そんなものは一部の特殊な性癖を持つ人間だけに限られるはずだ。
 断じてそのようなものを持っていないと自負している私は少し頬を紅の色に染めるというあたかも思いを寄せる人に挨拶をされた女子中学生のようなことをしてしまい、その場から逃げ出そうと考えたのだ。しかし、彼女から突如出てきた言葉は私が予想だにしない
「君もそのアニメ好きなの? あたしもそれ好きなんだ」
 という言葉だった。私は自分の脳の許容量を超えた彼女の反応にいささか戸惑いを禁じえなかったが、私が好きな作品を好きな人間がすぐ近くに存在しているということに浮き立つ思いを隠し切れず、休み時間はひたすらそのアニメについて語り合ってしまった。
 さて、そんな風に偶然の女神が気まぐれに用意してくれた私と彼女の出会いだったが、その出会いを活かせるかどうかは当人たちのコミュニケーション能力に全てが委ねられることがままある。そんなわけで私としてはその出会いを利用できることはないだろう、と一人たかをくくっていたのだが、やはり趣味が合うというのは会話を弾ませるのか、はたまた私の対人能力の欠如を補って更に有り余るほどのその能力を彼女が持っていたのかは今となっては定かではない。が、彼女と折に触れて会話を交わす仲になっていた。そしてく私と彼女はいつのまにやら惹かれ合う仲になっていたのだ。
 だが、しかしそこは花も恥らう高校生時代である。なかなか思いを素直に伝えられない日々を悶々として過ごし、はたしてこの気持ちを伝えるべきなのか、伝えたところで私のこの思いが花開くことがあるのだろうかとひとしきり布団の中で思い悩んだものである。傍から見れば私と彼女は相思相愛であったらしいが、先ほど言ったとおり対人コミュニケーション能力の欠如を第一に掲げている私としては何を持って告白とすべきなのか、そんな思いが首をもたげていたのだった。
 さて、そんな隣で見ていればただの甘酸っぱい青春の一ページである私の日々に転機が訪れるのであった。
 件のアニメの劇場版が公開されるというのである。私としてはなんとなく一人で見るのは気後れしたし、何よりこれは絶好の機会であると鼻息を荒くして彼女に映画の誘いをかけるのであった。勿論彼女からは満面の笑みで快諾の返事を頂戴した。彼女の返事を聞いてからは一日千秋どころか一万秋ほどの勢いでその日を待ち望んだものである。
 本来ならここでその日について行動について事細かに記述した上で、彼女の表情や些細な仕草、それに伴ってヨーロッパ地方の天気のように変化する私の機微な感情をを余すところなく綴るところなのであるが、それについてはただの自己満足となるだけなのは自明であるので止めておくことにする。ここで私の本懐が遂げられたことと彼女の唇は初めて口にしたマンゴスチンのように甘美であったということだけ付記しておく。
 そうして晴れて彼女と交際関係に至ることとなった私は幸福の絶好調にあり、もうこれ以上人生が上り詰めることはないだろうと確信していた。
 そうしてその確信は現実となる。
 彼女には、夢があった。
 幼少期の彼女のモノトーン色の世界に色を与えたのが絵画という代物だった。彼女は絵画に出会ってから世界に向き合い、その世界を字蝋色のキャンパスに映しこんでいた。そんな衝撃的な出会いを発生させたものにはたして出会ってから一年もたっていない私がかなうはずがあるだろうか。いや、そんなはずはあるまい。
 こうして私と彼女は芸術大学への道を歩むために袂をわかったのだった。


 一通り回想を終えると私は今の世界に戻ってくる。かつて彼女が見つめていたであろうモノトーン色の世界がそこには広がっている。私は彼女を失ってからあれほどの高揚感を一度として味わったことはない。それは私が最高学府と呼ばれる場所に首席で入学しても、サークルで主役に抜擢されても、学内一の美少女と呼ばれる女性に想いを伝えられたときも変わらない。
 私の世界にもう一度色が戻るのは彼女との出会いの原点である、あのアニメの主題歌を携帯が歌い始めたときだけなのだ。
 願いをこめて私は手の中にある携帯電話を見つめる。
 されど無慈悲なことに彼女がもう一度あの音色を響かせることは、ない。
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