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● ニアー、ミー  ●

 醜い。
 ユミのお見舞いの帰りに病院の廊下でベッドごと運ばれていた爺さんと目があって、はっきりとそう思った。死んだ魚なんてものではない。もっと深くて、 もっと生への執着心を見せ付けられるような目だった。あれだけ管を付けられて、そして自分で歩けない、自分で話せない。そんな状態になってまで生き残りた いという気持ちはどこから来るのか。それとも家族があんな状態になってまで生きていて欲しいと思っているのか。どちらにせよ、とにかく醜いと思ってしまっ た。
 そして同時にそんなことを思ってしまう自分も醜いのだ。自分がそういう状況に陥ったら確実に延命治療を求めるだろう。そして死んだように生きるに違いない。そんな遠い未来を想像してしまい、少し寒気がした。
 やけに長い廊下を進んで出口へと向かう。途中には点滴をつけた婆さん、車椅子に乗った子供、看護婦、医師、サンタクロースの帽子をかぶった謎の男、見舞 い客などなど沢山の人間とすれ違った。彼らは動いている。何を考えているのかは知らないけど、とにかく自分の意思で行動している。会話も出来ている。会話 が成立していると言うことはつまり、他者に人間として存在が認識されているということではないか。それこそが人間として生きているという証拠なのではない かと思う。
 じゃあさっきの爺さんはどうなのだろうか、と考える。きっと様子を見に来る人もいるのだろう。その人たちにとってはきっとあの爺さんは生きている存在で 人間であると思われているのかもしれない。けれど、何も知らない----例えば僕のような----人間から見たらあの爺さんが人間として生きているとは到 底思えない。確かに心臓のような生命維持装置は動いているかもしれないが、人間として見れるかといったら絶対に人間としては見れない。そこにあるのは人の 形をしたただの肉の塊だ。モノだ。死人だ。
 そうやって考えてみると人の生き死になんてものは個々の人間の主観によるものであって、死んでいく人間にとって死ぬなんてことは意味のないことなのだろうか。死んだ人間は自分が死んだなんてわからないのだから。
 と、なると。ユミのように意識のない人間は果たして生きていると言っていいのだろうか。僕にとっては絶対に生きている。隣にいるユミの父親にとってもユ ミは生きている。けど、何も知らない他人から見たらユミは生きているといえるのだろうか? ユミ本人は生きていると思えるのだろうか?
 そこまで思考が及んだところでいつのまにか病院の出口にたどり着いていた。
「じゃあ、僕はこっちなので」
 ユミの父親にそういって駅へと向かおうとすると、彼は車で送っていくよと、僕のことをひきとめた。わざわざ手間をかけさせることになるしそれは申し訳ない、と言うと
「君にだってここまで手間をかけてきてくれているじゃないか。電車賃だってただじゃないだろう? いいから、待ってて。車とって来るから」
 そう言って駐車場のほうへと行ってしまった。今まで何度か送ってもらったことはある。確かに電車賃が浮くし、早く家にはつくし僕にとってデメリットは殆 どないのだが、それでも申し訳ない気持ちでいっぱいである。しかし、ここで何も言わずに帰ってしまうのも失礼になるのではないかと思い、結局そこで待つこ とにした。駐車場のほうから白いセダンがやってきて僕の前で止まる。
「さっ、乗って乗って」
 扉を開けると相変わらず染み付いた煙草のにおいがした。僕も煙草は嗜むほうだが、車の中では吸わないので少しだけ顔をしかめて助手席へと乗り込んだ。車はゆっくりと走り出し大通りを左折し進んでいく。
「阿佐ヶ谷君は新松戸駅でよかったよね?」
 僕ははい、と返事をして窓の外を見つめる。隣は黒いワゴン車がいる。しばらくはお互い無言で走り続けたが、その沈黙に耐えられなくなったのかユミの父親 がカーステレオの再生ボタンを押した。最初の数小節を聞いただけで悲劇、それも救いようのないシーンであるとわかるような音楽が流れ始めた。聞いているだ けで胸が締め付けられ涙が流れてきそうになる。僕は黙っていたら我慢できずに本当に泣いてしまうだろうと思って話しかけることにした。
「これ……」
「あっ、ごめんね、気に入らなかった? ラジオにしようか」
 そう言うと先ほどの空気とは打って変わって能天気な野球中継の音声が鳴り始める。
「あぁ、いえ、気に入らなかったと言うわけじゃないんですけど」
「そうなの? てっきり気に入らなかったのかと思ったよ。今の、凄いお気に入りの音楽だったんだけど、ユミがああなってからは僕も聞いてると辛くなってし まってね。それでも好きだから何度もかけてしまうんだけどね。…………死んだ妻とユミをきちんと育てるって約束してたんだ。まさかこんなことになるなんて 思いもしなかったよ。半年もたっているのに今更なにを言っているんだという感じだけどね」
 はは、と少しから元気のような感じでユミの父親は笑った。その後ふー、と息をつき、車の中にはまた野球中継、それと時々ガクンと車が鳴る音しかしなくなった。
「……阿佐ヶ谷君」
 と、突然ユミの父親が真剣な声色で僕に話しかけてきたのはカープが一死満塁の一打逆転の大ピンチに陥ったときだった。
「なんでしょうか」
 僕はいつにない真剣な声色に少し身構えた。
「……ユミのことなんだけどね」
「はい」
「君がユミのことを大事に思ってくれているのは嬉しい。きっとユミもそうだし、妻もきっとそう思っているに違いない。そしてユミがああなってしまった後も 週に一回は様子を見に来てくれることも私たちはとても嬉しい。……でもね、阿佐ヶ谷君。君はまだ若い。だから未来がある。だから私は君に前を向いて欲しい と思っているんだ。私は妻とユミをちゃんと育てるって約束した。だから、ユミを最後まで見届ける義務がある。たとえどんな結果に終わろうとも、ね」
 彼はそこでいったん言葉を切った。少し何かを考えているようでまだ僕が口を開くタイミングではないということだけはわかったので、次の言葉を待つことにした。
「つまり、ね。一言で言ってしまえばユミを未来の君の負担にして欲しくないんだ。……言いたいことはわかるかな?」
「……はい」
 つまり、もうユミのところに来なくていいということだろう。なんというか。どこかで聞いたような話でどこかで見たような話で。だからこそ一度くらいは考 えたことのある話だよなー、と思う。僕も考えたことぐらいある。というか、ユミがああなってしまってから何度考えたことか。
 だから。いつか聞かれると思っていたこの問いに対する用意は出来ていた。それでも、うまく言えるような気がしなくてどんな風に話せばいいか、そんな順序で話せばいいか、時間をかけてもう一度考える。そうやって考えて考えて僕の答えを口に出す。
「えっと、上手く言えないんですけど。僕はユミのことが好きです。愛しています。これは今になっても変わっていません」
「うん、それは本当にありがとう。でも」
「すいません最後まで話させてください。えと、とにかく僕は彼女のことが好きです。うん、多分彼女より好きな人はこれから出てこないと思います。でもそれ だけだと多分お父さんはきっともっと好きになる人が出てくるかもしれないと言うでしょう。だからもう少しだけ理由をつけます。確かに僕はまだ若いし、未来 があります。他に女性を見つけてその子と付き合うことだってできます。でも、ユミが目を覚ましてそんな僕のことを聞いたらどう思うでしょうか。僕はユミが 目を覚ましたらどんな女性と一緒にいてもユミの元に駆けつけます。でもそれまで他の女性のところのいたなんて知られていたら、きっとユミは僕と話してくれ ないと思います。……それに若くて未来があるということは僕にはユミを待つ時間だって沢山会る、と言うことです。
 だから、お父さんの言うことはわかります。けど、僕はユミを待ちます。お父さんが何を言おうとも。安っぽいかもしれない。まだ若いと思われるかもしれない。でも、これは僕が決めたことです」
 そう言い切って返事を待つ。しばらく待っている間にいつの間にかカープは逆転されていて三点差を追う最終回に突入している。
「……本当に…………本当にそれでいいのかい? 後悔しないかい?」
「後悔しないとは言い切れません。……でも、ユミを待たないで彼女が目を覚ましたときと比べれば全然ましです」
「そうか……」
 気づけば駅の近くにたどり着いていた。車がスーッと駅のロータリーに滑り込んでいく。停止したのを確認してから車を降りる。
「すいません、ありがとうございました」
「いやいや、これくらい何ともないよ。……こちらこそありがとう。本当に」
 そういったのを聞いて僕は助手席の扉を閉じる。少し離れると車は動き出して先ほど来た道を沿うように逆方向へ走っていく。車が見えなくなったのを確認すると自宅までの道を歩き出す。駅から自宅まではほんの五分程度しかかからない。
 その間にさっきのことを思い出す。今日はやけに強引だったのは話をしたかったからかだとか、果たして僕の言いたいことはきちんと伝わっているかどうかだ とか。そんなことを考えつつ家の前にたどり着く。階段をカンカン音を鳴らしながら上がって自分の部屋の呼び鈴を鳴らすと、中から鍵が開く音がした。
 さて、今日言ったことは全て僕の本心である。僕はいつまでも彼女のことを待つつもりだし、他の女性と恋愛関係になるつもりはない。だけどそれは彼女に対する愛だけではない。もちろん、それが大きな理由の一つである。だけど、もう一つだけ僕が彼女を待つ理由がある。
「おかえり、ツバメくん」
「ただいま、ユミ」
 それは僕の部屋にユミが----それは肉体を持っていないが確かに----存在しているからである。



 ユミは半年前、交通事故にあった。それからずっと意識不明の状態が続いている。交通事故にあったと聞いたときの僕の騒ぎようと言ったらなんといえばいい のだろうか、しいて言うなら半狂乱とでも言えばよいのかもしれない。自分でも何をしだすかわからなかった。感情の奔流とはああいったものなのだろうと今に なって思う。とにかくその知らせを聞いて急いで病院に駆けつけたときには手術は全て済んだところで、あとは術後経過を見るだけという状況だった。ユミの父 親に初めて会ったのもこのときである。
 知らせを聞くのが遅すぎて、五年間ほど一緒にいる彼女の手術の無事も祈ることすら出来なかった僕は失意を覚え、帰りにヤケ酒を煽って胃の中身を路上にぶ ちまけれながら、ようやく自宅までたどり着いたのだった。そこで待っていたのがユミでないようでユミであるようなそんなユミである。
 僕は家に帰ったとき驚き、目を丸くしてその場から逃げ出してしまいそうだったがいかんせんベロベロに酔っ払っており走り出そうとしたところでまだ吐き気 を覚え動くことすらままならなくなった。そのユミであるようなユミでないようなユミは僕のことを部屋に入れ、介抱し、次の朝にはユミが事故にあう前に作っ ていたものと同じ味の味噌汁を作ってのけるのであった。
 そのユミに事故の話をするとどうやらよく覚えてないらしく「気づいたらここにいた」とかいう漫画的なドラマ的な発言をした。本来なら疑ってかかってもい いような状況なのだが、何故だか僕もユミもこの状況を受容してしまい今にいたることになる。つまり、僕はかれこれ半年前からユミと生活している。彼女は魂 なのか意識なのか何と言えばいいのかわからないけどそんな状態で。
「ツバメくん、すぐに晩御飯食べる? 五分もあれば食べれるよ?」
「うん、それじゃもう食べちゃおうかな」
「りょうっかい! お味噌汁だけ作るから待っててね!」
 そう言うとユミは台所のほうへ向かっていく。よっこいしょ、と声を出して床に腰を降ろした。テーブルの上にあるはずのリモコンを探すとないつの間にか部 屋の中にあったサボテンが目に入るばかりでなかなか見つからない。しょうがないのでテレビのほうへ行って直接電源をつけてまたテレビをつける。どうやら野 球中継は終わったようでピカソの世界、なんてものがやっていたのでつけたまま画面を眺める。
 台所のほうからリズム良くとんとん、とんとん、とまな板を叩くリズムが聞こえてくる。心地よいリズムが出ている台所を見るとユミがいる。腰まで伸びた長い髪、僕より低い身長、抱きしめると驚くほど細い肩、そのくせ大きい胸や程よく肉のついた腰。その全てが、ユミだ。
 どういうわけだがわからないがユミは俺の部屋のものだけは手に取り動かせるらしい。そんなわけで彼女は大体僕の食事を用意してくれる。たまに彼女の後ろで包丁捌きをじっと見ているとまるで彼女が生きてここに存在しているようで怖くなることがある。
 いや、待て、と僕は考える。彼女は生きている。少なくともこの空間の中にいる僕にとっては生きている。この部屋の中にいる限り彼女は僕と同じように振舞 える事は間違いないのだ。それはつまり生きているということじゃないのだろうか。でも、彼女は世間的には『意識不明』な女性なのだ。この部屋から一歩でも 出れば僕にしか見えない幽霊なんてものに成り下がるのだ。そう、つまり、他人から見たら、生きていない。最悪、何も知らない他人から見たら彼女は『死人』 と大して変わらないのだ。さっきの僕が名前も知らない爺さんを見たように。そう思うと急に怖くなって泣きたくなってきた。
「ツバメくんどうしたの?」
 はっ、と気がつくといつのまにか僕の目の前には暖かい食事が用意してあった。明日の小テストのこと考えていただけだよ、と言い訳して目の前の味噌汁を一 口そそる。ユミはそれを見てニコニコと微笑んでいる。それは彼女が僕の部屋に来る前になったときから変わらない。彼女は僕が何かをしているのを非常に楽し そうな笑顔で見つめてくる。。僕は彼女のこの笑顔に惹かれて彼女に声をかけたことを思い出した。彼女は人が何かをしているのを本当に楽しそうに、しかも一 つもいやな気分など起こさずに、見つめていた。僕は彼女のこの笑顔がとてつもなく愛おしい。
 彼女が作った味噌汁の味も変わらない。初めて彼女の料理を食べたときは感動のあまり食べてしまうのがもったいないと思うほどだった。そのことを彼女に言 うと「また、いつでもつくってあげるよ。……もちろん一生……ね?」なんて言われてこちらが赤面してしまうほど可愛かった。
「おいしい?」
 少し不安そうな顔でそう聞いてくるのも変わらない。彼女の作るものがまずいなんて訳はないのに何回ご飯を作っても彼女は不安げにそう聞いてくるのだ。そ のたびに僕は「まずいわけないじゃないか、とってもおいしいよ」と言って彼女の頭をくしゃくしゃとなでてやる。そうすると彼女は普段から少し細身の目を更 に細め、えへへ、と笑うのだ。この顔もとても可愛くて僕は何時までも彼女の頭をなでていたくなるのだけれど、さめちゃうからと彼女に言われ食事に戻る。
「ユミも来ればよかったのに」
 と、僕は彼女に言った。
「やだよ、自分がベッドで寝てる姿見るなんて。それに見に行ったからってなにが変わるわけでもないし。意識が戻るって言うなら、勿論行くけどね?」
 と彼女は僕に返した。彼女がこの部屋に現れてから何度か僕について自分自身の病室に向かったのだが、彼女が自分自身に重なってみても彼女の意識は戻らな いし、彼女は自分が寝ているのを見ても何も面白くないといって四回目にしてついに自分の病室に行くことをやめてしまった。
 僕がすっかりご飯を食べ終わると彼女は「えーい」と言って抱きついてくる。これも前と変わらない。布団に入ると後ろから抱き着いてくるのも変わらない。 彼女は抱きつくのが好きで、どこにいようと彼女が抱きつきたいときに抱きついてくる、という人間だった。僕は少し恥ずかしくてやめてくれよ、と言うのだけ れどそのたびに彼女は「ツバメくんはあたしのものだからその言い分は却下します!」なんて言って離してくれないのだ。
 そう、彼女と僕の間は何も変わっていない。変わってしまったことなど何もないのかもしれない。



 その週の日曜日はユミとデートに行くことになっていた。目覚ましは九時過ぎにかけていたのに起きたときにはすでに十時でちょっと寝坊してしまった。少し夜更かししすぎたかもしれない。
「どこ行きたい?」
 ユミにそう聞くと
「んー、あたしはどこでも良いよ。ツバメくんの好きなところで。あたしは見てるだけで楽しいし!」
 彼女はこう答える。今となっては見ていることだけしか出来ないのだが、彼女の肉体があった頃も彼女は大体においてこんな感じだった。あまりわがままを言わず僕がしたいことをやらせてくれた。
「そしたら動物園でも行こうか。ユミは動物好きだろ?」
「うん、好きだよ。でも本当にいいの?」
「全然平気だよ。ユミの楽しそうな顔が見たいからね」
 そう言うと彼女は道の真ん中へとスキップで駆け出していく。人に当たることはないから気楽なものである。僕はと言うと携帯電話を左のポケットに入れ、そ れにイヤホンとマイクを取り付ける。外でユミと話していても怪しまれない工夫である。一度これをせずに出かけたところ、小学生に「なんでお兄さん絵を見な がら一人で話してるのー?」なんて聞かれてしまったからその次からは忘れなくなった。
 駅へと続く道を二人並んで歩いていく。今日のユミの服装は秋柄のワンピースだった。風にそよいでスカートの部分がはためいている。ふわふわ。さわさわ。
「今日もユミは可愛いね」
「もう、そんなことないって。……でもツバメくんがそう言ってくれるのは嬉しいな」
 なんて言って彼女ははにかみながら微笑む。僕もそれにあわせてフフ、と笑う。こういうのが幸せなんだろうな、と心の中でそっと思う。カップルの間では他愛のない、けれど確実に僕を笑顔にしてくれる会話をしているうちに駅についていた。
 ここからはしばらく会話はお預けで黙って電車に揺られることにする。僕はカバンの中から債権法の教科書を取り出して勉学に励むことにした。ユミはと言う と僕の教科書をじっと覗き込んでいるかと思うと五分もしないうちに飽きたようで電車の中吊り広告を見たり隣の人のやっているDSを覗き込んだりをして勝手 にやっているようだ。
 三十分ほど電車に揺られていると目的地に着いた。動物園のある駅である。結構な人数が電車から降りて僕たちと一緒に降りて、後ろに残った電車の中には先 ほどの三分の一くらいの人数しか残っていないようだった。目的の動物園は駅のすぐ目の前にあると言う話だからそれほど迷うこともないだろうと思っていた が、本当にすぐ目の前にあって逆に迷うほうがよっぽど難しい。
 チケット売り場に並んで「大人一枚で」と受付の、おそらくお姉さんにお金を払う。周りから見たら家族連れの中男一人で動物園に来る物好き、もしくは暇人 なんて思われているのかと考えると少し切なくなる。実際多少は奇異な目線は感じる。ほうっておいてくれ。そのことをユミに話すとひどく悲しそうな顔をして ごめんね……などと言われてしまってしまった、と思ったときにはすでに遅かった。
 ユミの機嫌というか精神状態はひどくめいってしまったらしくなにを話しかけても、うんとかすんとかしか言わない振り子人形のようになってしまった(流石 にすんとは言っていないが言葉のあやというやつである)。はてさて、いったいどうしたものか、と考えているうちにいつの間にやら海のゾーンなんてものに来 たようである。そこで救世主、メシア様かのごとく彼らが現れたのである。
 そう、ペンギンである。僕が
「おっ、ペンギン」
 なんてことを言うと
「え、ペンギン? ほんとだ、ペンギン! ねえツバメくん、ペンギンだよ、ほらペンギンさん!」
 と突然目を輝かせあっという間に水槽の前までダッシュで行ってしまった。人に当たることもないので周りに目もくれず走って行くのでたちが悪い。これまたあっという間にユミがどこに行ったのかわからなくなる。
「全く、いくらペンギンが好きだからって……」
 と、一人ぼやきペンギンの水槽の近くに歩いていく。水の中をスイスイとまるで水を得た魚のように泳いでいく鳥類ペンギン目であるペンギンがそこにはいた。ついでユミも。
「おいおい……」
 とつぶやいてしまうのも許して欲しい。ユミは肉体がないことをいい事にペンギンの水槽の中にまで突入して誰よりも近くでペンギンの遊泳する姿を堪能して いた。その姿はあたかも水中に舞い降りた女神のよう……というのは言いすぎかもしれないが、とにかくペンギンを誰よりも間近で満喫している彼女の姿はとて も魅力的だった。
 僕に気がついたのか彼女は僕に手を振ったがここで手を振りかえしたら僕は確実に残念な人になってしまう。わかってくれるといいな、と期待して彼女に視線を送るとどうやら気づいてくれたようで一度僕のほうによってくると
「しばらく近くでペンギンさん見てくるから休んでて平気だよ」
 と言うと彼女はまたペンギン観覧の特等席へと戻っていった。仕方ない奴だ。多分こうなってしまったら少なくとも三十分はあの状態のままだろう。僕だって ペンギンは嫌いじゃないが三十分も見ていられるものは無い。お言葉に甘えて足を休めることにした。人がいないところを探してみようと思ったところすぐ近く に人気のない、いい感じのところがあったのでそこに腰を落ち着けることにする。
 どうやらそこはカブトガニやらシーラカンスやらの所謂生きた化石的な生物の説明展示がなされている場所で実際の動物はいないらしい。道理で人がいないわ けだ。テキトウなベンチに腰掛けて、一息つく。目の前にはやけに精巧に出来たシーラカンスの展示があって、なんだか少し気味が悪い。じっくり見てみたけど 少なくとも可愛いとは思えない。人体模型に性的興奮を覚える人も僕の友達にはいるから一概に全員がとはいえないけど。
 一息ついてふとユミが事故にあっていなかったら、と思う。きっと今頃僕の隣で必死になって目を輝かせてペンギンの可愛さについて延々と語っていただろうと思う。それに僕ははいはい、としょうがないなぁといった笑みを浮かべて彼女をなだめていただろう。
 だけど、今ユミはペンギンの水槽の中に居て、僕はこのよくわからない生きた化石たちの模型の海の中に居る。彼女は彼女なりに考えているのかもしれない。 今の状況で彼女と休憩していたらあきらかに電話ではありえない会話だって出てしまう。歩きながらすれ違う程度ならいいかもしれないが、ずっと聞いて居たら 不審に思われるかもしれない。だから彼女は一人でペンギンの水槽に居るのだろう。
 まさか、肉体がないことをいいことに今まで感じることの出来なかった世界を楽しんでいる、というわけでもないだろう。例えそういう気持ちがあるにして も、彼女が僕をないがしろにするはずはないのだ。なんせ、彼女には、今の彼女には僕しかいないのだから。もちろんある日突然彼女の意識が戻ってきたら僕た ちの関係は元通りになるだろうけど。でも、今のところ彼女が見えているのは僕だけだ。そう、彼女には、僕しかいない。
 そう改めて考えると急に肩が重くなった気がして伸びをする。首を左右に鳴らしてバキバキと音を鳴らす。体に悪いとは思っていてもやめられない。胸元から パンフレットを取り出してほかにどんな動物がいるかチェックをしておく。おっ、オオアリクイがいるぞ、みたことないから一度は見てみたかったんあぢょな。 どうやらコウノトリも近くにいるらしい。子供つれてきてくれないかな。いや、別に信じてるわけじゃないけど。
 そんなことをしているうちに時計を見ればいつの間にかサッカーのロスタイムに突入するような時間がたっていた。いつまでペンギンを見ているつもりだろ う。そう思って迎えにいこうと思ったけれど、ユミが楽しんでいるのを邪魔するのも割るいいと思ってまたパンフレットに集中することにした。
 結局彼女が僕のところに戻ってきたのはハーフタイムが終わって後半戦に突入しようかというときだった。



 結局それから白熊とかオウムとか梟とかワニとかカピバラなんかを見て動物園での時間は過ごすことが出来た。そんなデートを月に二回ぐらいして家ではゆっくり過ごすなんて日常が四分の三年も続いているうちになんだかユミの様子がおかしくなった。
 おかしくなったと言ってもそれはきっと他の人は気づけないようなもの。というか今は僕にしかわからないものだけれど。具体的に何がおかしいかと言うと ボーっとしている時間が多くなったような気がするのだ。話しかけても「ごめん、聞いてなかった」なんて言う回数が増えていたし、明らかに窓の外を見ている ことが多くなった。
「どうかした?」
 なんて聞くのはイヤだったし、それに聞いたところで彼女が答えてくれるかどうかもわからないし、そもそも彼女が「心配かけているかも……」などと空元気を発揮するなんて事は避けたかったのだ。

 このときのことを今になって思い返してみると、僕はある意味で愚かだったし、ある意味では聡かったのかもしれない。なんにせよ、僕はその日まで異変の原因に気づかなかったのはある意味正解だったのだと思う。

 その日はちょうどユミの誕生日とお見舞いに行くことにしている曜日が重なったので、僕は帰りにユミへの誕生日プレゼントを受け取ってサプライズプレゼント! なんてことをしようと思っていたのに朝ごはんを食べているときに
「今日はあたしも行く」
 なんてユミが机の上のサボテンをいじりながら突然言い始めたものだから困ってしまった。いや、行くこと自体に問題はないのだけれどせっかくサプライズで 素敵なものをあげようと思っていたのに、一緒について来てしまっては意味がない。どうして、今日に限って、いや、今日に限ったからこそついて来る気になっ たのかもしれないけど。
 とにかくそんなことを表情に出さないようにニトログリセリンでも扱うかのように繊細な気を使い「どういう風の吹き回し?」なんて聞くと「そういう気分に なっただけ」と少し困った様に笑い返すだけだった。あんまりしつこく聞くと手元のサボテンが飛んできそうだったのでこれ以上は突っ込まないことにした。
 病院までの道のりもなんだかいつもと違った。僕の違和感に天気も呼応するかのように薄暗い雲が空を覆っていて、荷物になるからイヤだけど大きな傘を持っ ていくことにした。これじゃせっかくのプレゼントを持って帰るのだって大変だ。それに、何を話してもユミは「そうだね」とか「へー」とか相槌しか打たな い。表情もなんだか浮かない様子かと思うとサンタクロースを待つ子供のように期待に満ちた表情を浮かべたりなんだか情緒不安定。僕のことが見えていないん じゃないかと思った。上の空。
 ここにきてやっと僕は彼女のここ最近の異変のことを思い出す。今まで気づいていなかったけど。つまり、誕生日が楽しみだったのだろう。想像でしかないけ ど、きっと肉体がなくなってしまった自分が誕生日なんてむかえていいのだろうか、とか僕が誕生日プレゼント用意してるだろうかとか、とにかく僕が想像でき るような普通の女の子が考えることも、肉体がないユミにしかわからない、僕が思いもつかないようなことも色々頭の中を渦巻いていてもたってもいられず僕に ついてくることに違いない。多分、そう。
 これ以上考えても仕方ないしユミにどうしたの、なんて聞くのもやっぱりいやなのでこのあたりで思考停止しておく。というか、要員についたので思考停止をせざるをえなくなった。
 相変わらず長い廊下を歩いていくとユミの担当の看護婦さんに会った。
「おはようございます」
「おはようございます、阿佐ヶ谷さん」
「ユミのお父さん来てますか?」
「いや、今日はまだ来てないみたいね。いつも阿佐ヶ谷さんより早く来てるのに」
「まぁ、そういうときもありますよ。ところでユミの容態はどうでしょうか」
 そんなことを話しているうちにユミは勝手に病室のほうに行ってしまった。女の人と話しているのが気に入らなかったのだろうか。君の事を聞いていただけなのに。先に行ってしまうなんて少し冷たいな、と思う。まぁ、いいけど。
 仕事の邪魔になっても悪いので五分程度で話を切り上げてユミの病室へと向かった。やはり病院に沢山の人がいて、すれ違う人間はみんな様々な表情を見せて いる。そのお腹にはいつか見た爺さんが居た。彼は何も変わっていなかった。相変わらず管を通して何も見ていない眼でこちらを見つめてくる。気味が悪い。醜 い。
 あの日のことを思い出す。あの日思ったことも。しばらく忘れていたけど。彼は生きているのだろうか。彼がただのモノや死人に見えるのであれば、果たしてユミがそうではないと言い切ることは出来るのか。
 そんな絶対答えの出ないような問題を頭の中で再びこねくり回しているうちにいつの間にやらユミの病室の前までたどり着いていた。
「お父さん来てないみたいだね」
 ベッドの横に立ち、自分自身を見ているユミにこっそり話しかけると
「うん」
 と、そう答えたきり、なんだか元気がなくなってしまった。
 あまり、気にしてはいけないのかな、そう思い僕はいつもの通りユミの病室を掃除し始める。看護婦さんがやってくれているのだが、なんとなく自分でもやら ないと収まりがつかない。パタパタフキフキ。そんな効果音を響かせながら一時間くらい掃除を続ける。その間ユミはひと時もその場から動かないし、彼女のお 父さんも来る気配を見せなかった。
 少し疲れたのでコーヒーでも買ってくるよ、ユミにわかるように紙に書いて机の上に置く。ユミは少しうなずくと、また自分のベッドの横へと移動する。全くどうしたって言うんだ。
 すぐそこにある自動販売機でダイドーの缶コーヒーを手に入れてまた病室へと戻った。すしたらものの五分もしないうちにユミはいなくなっていた。ほんとに、一体全体どうしたことか。彼女はどこに行ったのか。
 しょうがないのでベッドの横にある椅子に腰掛けてコーヒーをすする。少し息をつくと、何故だかむしょうに眠くなってきてしまった。体を動かしたからだろうか。よくわからないけど眠い。コーヒーを飲んだくせに。
 そんな虚ろな意識の中で思うのはまたあのことである。
 ユミは生きているのか。モノじゃないのか。確かにここにユミは居る。肉体はここにあるし、意識は今はここには居ないけど、確かに僕の見えるところに居 る。でも、それっておかしくないか。自分が見えるだけで他の人には見えない意識だけの存在なんてそれは果たして生きているなどと言えるのだろうか。わから ない。全然わからない。彼女はモノ? 人? 死体? わからないわからないわからない。



 「阿佐ヶ谷さん、大丈夫ですか? もう面会終了なので、起きてください」
 担当の看護婦さんに起こされたのはもうそんな時間になってからだった。
「あっ、すいません、帰ります」
「よろしくお願いしますね。それじゃまた来週」
 そういって彼女は行ってしまった。
「……ユミ、どこ行ってたの?」
 彼女が居なくなったのを確認してから、僕は小さな声で何時間か前の場所と数文たがわぬ場所にたたずんでいるユミに話しかける。
 そう聞いたのにユミは僕に返事をしてくれない。
「答えたくないならいいけどさ。とにかくかえろ?」
「いや」
 ユミは即答した。
「いや、拒否されても面会時間終わりだから僕は帰らないと」
「まだ、お父さん、来てないから。待ってる」
「いやいや、猛綿花時間終わりなんだから来れるわけないだろ? 多分休日出勤だったんだよ。ほら、帰ろう?」
「いや、いや、いやなの」
「……そうしてそんなに嫌がるのさ」
 そう聞いてもユミは僕に返事をしない。
「……僕は帰るよ? 迷惑かけるのもイヤだし。ユミも帰らない?」
 それでもユミは動かない。さて、何故こんなに意固地なのかと考えながらも病室を出ようとするとユミは突然僕のことをひきとめた。
「待って」
「どうしたの、帰る気になった?」
「違う、違うけど、待って」
 どうしろと言うのか。僕は少しだけ怪訝な眼をユミに向ける。そのまま十分も立ちすくんでいるとユミがそっと口を開いた。
「あのね、あたし、今日誕生日なの」 
「うん」
 知ってる。誕生日プレゼントも用意しておいたし。
「そんな日なのにね、お父さん病室に来ないの。どうしてだか、わかる?」
 少しだけ考えるけどそんなのわかるわけがない。ユミのお父さんから何か聞いた覚えもない。
「そんなのわからないよ、たまたま来れなくなったんじゃないの?」
「違うの、違う。そんな理由じゃない。わかってるの、今日ね、私の誕生日なの。それと……お母さんの命日。お母さんね、病気で、あたしの誕生日に死ん じゃったの。お父さんは、その墓参りに行ってる。見てきたの。さっき。あたしの誕生日だなんて忘れてる。頭の中はお母さんでいっぱいなの。お母さんが死ん でから、あたし一度も誕生日プレゼントもらったことなんてない。お母さんが死んでからお誕生日おめでとうなんて言われたこともない。法事とかあるから仕方 ない、なんて思ってごまかしてたけど、そんなことないの。お父さんにとって、あたしは、なんでもないの。何者でもないの。ただ、お母さんに言われたから、 死んだときに『ユミをよろしくね』って言われたから育ててるだけなの。お父さんの中にあたし、ユミという人はいないの、モノでしかないの。あたしがこんな 状態になってもお父さんが来ないのがその証拠。こんなときぐらい、あたしを……」
 ユミは限界まで水を溜め込んだダムが一気に水を放出するように言葉を放出して、その後はただ泣き声だけが聞こえるようになった。僕は何も言わない。何も言えない。何も知らなかった。慰めればいいのか、そんなことないと言えばいいのかわからない。
 でも、多分何を言っても中途半端になるだけできっと彼女を救うことは出来ないだろうと思った。僕に出来ることは、ただ黙って、彼女が泣き止むのをじっと 待っていることだけだ。無力感を感じて全身から何かがぬけていくような感覚がした。僕は、僕は、大好きな彼女に何も出来ない。
 彼女の父親はユミのことをただのモノだと思っている。ただ、彼女のお母さんと約束したから育てているだけのもの。
 じゃあ、僕はユミを何だと思っている? 僕にとってユミは何なんだ? 僕にとってユミは大切な恋人で大好きな人で、いつかは結婚したいな、なんて考えている子。肉体がなくなっても僕のそばに来てくれる子。世界でただ一人、僕だけに見える大切な君。
 彼女を幸せにしたいと思った。僕の大好きな彼女の笑顔を見たいと思った。
 僕にとって彼女はモノなんかじゃない。代替の効かない、たった一人の。大切な。
 そう考えると、少しだけ力がわいてきて、彼女の顔を見ることが出来た。やっぱり彼女は泣いていて、僕は何も出来なかったけど。
 そんな、彼女の泣き顔を見つめ続けてどれほどの時間がたったのだろうか、彼女は僕にこう言った。
「……ツバメ君は、あたしのことを見てくれるよね? あたしのことを見捨てないよね? あたしとずっと一緒に居てくれるよね?」
 僕は、声を出さずにただ首を縦に振る。それを見たユミは「ありがとっ」と小さい声で言った。
「帰ろう?」
 僕は彼女にそう言うと彼女は何も言わず椅子から立ち上がる。
 ゆっくりと長い長い廊下を歩く。廊下には煌々と明かりがついていて昼間のようだった。ユミは後ろに黙ってついてくる。今ばっかりはあの爺さんとはすれ違わなかった。



「おはよう」
 ユミが起こしてくれた時間はとっくに講義の開始時刻を過ぎていて、全くどうしたものか、と考えてしまう。まぁ、いいや今日は自主休講、行かなきゃいけないところもあるし。
「もう、授業行かなくていいの?」
 なんてユミは聞いてくるけど、今日はなるべく家で過ごしたい。そもそもユミが早く起こしてくれればこんなことにはならなかったのに。そういうと「知らないよ、バカ」なんて言って膨れてしまう。
 いつもどおりのユミの朝食を食べ始めると、いつの間にか机の上が定位置になっていたサボテンに花がついている。
「サボテン、花咲いてるね。というか花咲くことすら知らなかったけど」
「えー、そうなの? あたしは楽しみにしてたのに」
 なんてお互い笑ういつもどおりの風景。
「飯食い終わったらちょっと出かけてくる。昨日渡そうと思ってた誕生日プレゼント受け取ってくるから」
「えっ! ほんと! 楽しみに待ってるね」
 そう言って彼女はとても嬉しそうに笑う。またこの顔が見れてよかったと僕は思う。
 彼女が笑って幸せになる。僕も笑って幸せになる。
 今日も、明日も。そしてこれから。そうして二人で生きていく。
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