私には甘すぎる

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 先輩からモンブランを食べに行こうと誘われたのは三日前の火曜日の事だった。『後輩さん、モンブランを食べに行きましょう、今週の予定はいかがです か?』と連絡が入ったのだ。相変わらず唐突で、相変わらず何故か敬語なんだなぁ、と思いながら先輩からのラインに私は返事をする。今週は特に用事がない し、私はまだ学生で先輩はまだ社会人だから、先輩が時間を指定してくれたほうが合わせやすいだろう。そう思って時間を決めてくれれば合わせると返事をする と、『では三日後のおやつ時にしましょうか。仕事は午後休みを取るので、二時頃に駅前で。楽しみにしてます』と相変わらず敬語の返事がきた。しかし、たま にはこっちの都合も考えてほしいものだ。先輩は私の高校の先輩で、頻度はまちまちだけどだいたいこんな感じで甘いものを食べに行く誘いがある。しかも殆ど の場合においていきなり、前触れもなく。いつも思うのだけれど、旅行の予定でも入っていたらどうするつもりなのだろうか。むしろたまには用事があると嘘を ついて、どんな反応をするか見てみようか。そう思ったけれど、多分『それは残念。では、また今度』なんて言ってお流れになる程度だろうから、やめておい た。私も甘いモノは好きだし、先輩が連れて行ってくれるところはいつもかなりの高級店だ。しかもそんな高級店で奢ってくれるので、そんな機会をみすみす逃 す理由は私にはなかった。
 そういうわけで、今日は金曜日。本当なら授業が終わればサークルの部屋でだらだら過ごしてみたり、友達と遊びに行ったり、買い物をしたり、家で本でも読 んでいたり、私が気の向くままに時間を過ごしているのだが、今日は駅前で待ち合わせなんていうものをしている。秋も近づいてきたからか、駅は男性のスーツ の黒、それといわゆる秋らしい色、ボルドーだとか、紺だとか、そういう深い色に染まっている。先輩はどうしても放り出せない仕事が急に出てきてしまい、少 し遅れるらしい。あの人は時間に遅れるのが本当に嫌いなので、さっきから怒涛のように謝罪の言葉が通知欄に出てきているけれども、何度気にしていないと 言っても謝り倒してくるだけなので、無視していても構わないだろう。どうやら、あと五分もしないうちに着くらしいし。
 そうやって、考えていると、改札口から急ぎ足で出てくる先輩を見つけた。仕事終わりで来たからか、ご多分に漏れず、先輩も黒いスーツを身にまとい、キョ ロキョロと私を探している様子だった。私から先輩が見えている、ということは逆もまた同じなわけで、先輩はすぐに私に気づき、はっとした表情を浮かべた。 私が手首だけで手を振っているのに、振り返しもせずに急いでこっちに来たかと思うと、開口一番こんなことを言う。
「返事くださいよ……怒って帰ったりしたのかと思いました」
「あぁ、それなら見てましたよ、ちゃんと通知のところに出てるから。先輩いくら許すって言ってもずっと謝ってくるからうざいんですもん。この台詞何度目でしたっけ?」
「んー、多分数えきれないほど言われてますね、うん」
「でしょ?」
「でしょ、じゃなくて……あー、まぁ、とにかく遅れてごめんなさい。ごちそうするので、許してください。遅れておいてなんですけど、あんまりのんびりしてると、お店が昼下がりのマダムたちの溜り場と化して恐ろしく混みそうなので、さっさと行ってしまいましょう」
 そう言うとこっちです、と言って先輩は歩き出した。私はそれに素直に着いていく。実は、というほど驚きの話でもないが、これから行くお店は先輩が本当に 行こうとしていたお店ではない。最初行こうとしていたお店のモンブランは期間限定商品で十月の中旬からの販売だった。今はまだ九月下旬。販売なんかしてい るわけがない。それに私が気づいたのは昨日のことで、先輩にそのことを伝えると、すぐに別のお店を探してきて、ここでよいですか、なんて聞いてきた。
『別にそこのでもいいんですけど、最初に食べたかったところが始まってから一緒に行くのでもいいんですよ』
 なんて返事をすると先輩はすぐに返事をしてくる。
『もう約束してますからね。あそこのが始まったらまた誘いますから、一緒に行きましょう』
『了解です、また明日』『はい、また明日』
 そんな昨日繰り広げていた会話を脳内で反芻していると、すぐに目的のお店に着いた。先輩が連れて来るからにはやっぱり小洒落ている。以前何故男なのに行 く店、行く店がこうも女の子受けしそうなお店ばっかりなのか、とメールで聞いたところによると、「あれです、一般的に女性の方が甘いもの好きっていうイ メージが有るでしょ? だから、美味しくて、甘くて、素敵なものはたいてい女の子が好きなところにあるんです」だそうだ。私をいつも誘ってくるのは、一人 でそんなお店に入るのは流石に厳しいからだとか。
 少し手狭な感じのする店内はほぼ満席で、あと少し遅れていたら待ち時間が発生していただろう、といったところだった。都内だから仕方ないのかもしれない が、やや隣との席が近くて窮屈な感じがする。それなりに高いお店なんだからもう少しゆったり感を楽しませて欲しいところだ。ただ、白を基調とした店内は清 潔感がある。真っ白すぎて少し疲れる感じもするけれど。
 黒いエプロンに白いブラウスというテンプレートながらも好印象を与える格好の店員さんがメニューを持ってきてくれる。お目当てのモンブランはこのお店の 定番商品らしく、最初のページに大きく写真とともに載っていた。あとの商品もモンブランに使われている栗クリームを使っているらしく、どれも味は栗のよう だ。となると、オーソドックスに普通のモンブランが一番だろう。あとは温かい紅茶でも頼んでおけば立派なティータイムだ。
 早々に注文を決めて先輩の方を見るとページをめくっては戻し、めくっては戻し、とメニューを真剣な表情で見つめてウンウンと唸っている。これもやっぱり 相変わらずだ。この人はいつもメニューを決めるのにたっぷり十分はかかる。まだメニューがたくさんある店ならわかる。ただ、今回はそれほどバリエーション も無いし、そもそもモンブランを食べに行こうと言ってここに来たのに、何故そこまで悩む必要があるのだろうか。よくわからない。
 まぁ、いつもの通り気にしていても仕方ない。昔からそうだから。そう、だから私が考えるべきなのは、何故先輩が私に会ってからも敬語を使っているのか、 ということだ。確かに先輩は何故だか携帯を通じた、というかメールだとかラインだとかを使うと誰に対しても敬語になる。だから、それはもう何年もこの人を 見てきている私には慣れたものだ。けれど、今日は会ってからもずっと敬語なのだ。普段なら駅であった時も
『ほっんとごめん、おごるから許してくれ! 頼む!』
 なんて感じでそれで勘弁してあげます、なんて言うと
『さっすが! それでこそ我が後輩だよ!』
 とかいう軽いノリなのに、今日に限っては終止敬語で落ち着かない。何かあったのだろうか。というか、今日久しぶりに呼び出した原因は何かあったからなの だろうか。まぁ、いずれにしてもこの人のことだから、そのうち話し始めることだろう。わざわざ私を呼び出して来るからには、何もしゃべらないで帰る、こと なんてことはないはずだ。
 そもそも、高校時代だって彼女と何かある度に私に相談があると言ってコンビニのシュークリームを餌に(それに釣られる私も私だけれど)部室で延々と話を 聞いたりだとか、デートの下見と言ってショッピングモールに出かけたりだとか、先輩は私を便利屋か何かと勘違いしているのではないだろうか。ていうか、な んだと思っているのだろうか。
 まぁ、かく言う私もそれに付き合っているあたり何も言えない。なんでだかわからないけれど、誘われると仕方ないなぁ、と思っていそいそと出かけてしまう。うん、これはやっぱり先輩が頼りなさすぎるからだ。仕方ないのだ。
 そんなことを考えていると、先輩がこちらに「もう決まりましたか?」なんて声をかけてくる。すぐに頷くと、先輩が呼んだ店員さんに先輩、私の順で注文をしていく。結局先輩は私と同じ普通のモンブランにしたらしい。
「散々悩んだ挙句普通のにするんですか?」
 と言うと、先輩はそんな言い方しなくてもいいじゃないですか、と少し困ったように笑った。
 先輩の仕事はそれなりに上手くいっているらしい。と言っても一年目だからあまり大きな仕事を任されているわけでもないようだけれど、それでもまぁ自分の 中では上々だとか。最後に、仕事する意味なんてあんまり無いんですけどね、なんていうことさえ言わなければ完璧だったのに。まったく精神的に弱いんだこの 人は。
 私は、仕事に意味を求めてはいけないと思う。それは仕事なんてものは嫌でもやらなければいけないもので、そこに楽しさを見出そうとしてもまず見つからな い。運良く、いや運悪く楽しさが見つかってしまったとしても、今度はその仕事以外が嫌で嫌で仕方なくなるに決まっているのだ。仕事、なんてものはバイトく らいしかしたことはないけれど、正社員と大して変わりはしないだろう。そう思って先輩にそのことを言う。すると、少し呆れた顔をして先輩は私にこう言っ た。
「それはわかってますし、多分それを高校生の君に言ったのは高校生の僕だったと思いますよ?」
「そうでしたっけ?」
 確かにそうだった。思い出した。私は話を逸らすべく先輩の仕事のことを質問しようとするも、先輩は私をじっと見つめたまま、微動だにしない。私はその視 線に負けて「ごめんなさい」と一言発した。その掠れた声に先輩は「それでよいです」と、じっと私を見つめていた目を細めて満足気に笑った。その表情を少し だけ真剣に戻して、先輩が何かを口にしようとしたところで、先ほどの店員さんが注文の品を持ってきた。
「はい、こちら、モンブランです」
 先輩と私の目の前に一つずつ、お皿がおかれる。その中心には見ただけでモンブランとわかる栗色の物体が鎮座している。それと比較して明らかに過大である 皿の余白には、濃い紫色のソースで美しい模様が書かれている。なるほど、どこからどう見てもモンブラン。残念ながら私には美的センスなんてものがないの で、これ以上の表現はやめておく。余計にひどくなるだけだ。
「じゃ、いただきましょうか」
 先輩がそう言うが早いが私にフォークを手渡してくる。どうも、とお礼を言って受け取ったフォークを栗色の海に沈めていく。かなり粘度のあるもったりとし たクリームのようで、見た目以上の質量を手に感じる。かと思うと、ある程度フォークを進めると、すっと感じていた重さが無くなった。栗のクリームの中はど うやら生クリームになっているようだ。そのまま下まで手を進めていくと、固いものに突き当たる。なかなかうまく切れずに四苦八苦していると、先輩が私を見 てフフッ、と鼻で笑う声が聞こえた。その声に反応して私は先輩の方を睨みつけると、思ったよりもその眼光は鋭かったらしい。先輩は肩をすくませて、ごめん と呟いた。
 私はそれを尻目に意識をモンブランにもう一度戻し、下にしかれているなんだか硬いものを砕こうと力を入れる。えいやっ、と心の中で声を出すと、その勢いに釣られてくれたのか、小さな音を立てて硬いものが砕けた。
「それはですね、マカロンなんですよ」
 悪戦苦闘していた私に先輩はそうやって声をかけてから、ゆっくりと自分のモンブランを口に運ぶ。そうしてモンブランを嚥下すると先輩は目を細めて体を震わせた。どこから出ているかわからない悦に入った声を出して舌鼓を打っている。
 私もそれに続いてようやくフォークの上に収まった一口大のモンブランを口に運ぶ。一番始めに感じたのは濃厚な甘さだった。栗と砂糖が口の中で激しく自分 を主張して、違和感を感じる。いくらなんでも甘すぎる。これが先輩のおすすめのお店? 私が抱いた疑問がとけたのは、二、三回咀嚼してからだった。咀嚼を して顔を出すのは生クリーム。それが濃厚な栗と砂糖を受け止めて混ざり合い、口の中で絶妙なバランスを作り上げていく。更にそこにマカロンのさくさく感が 加わり、ただただ甘いだけのクリームを食べているわけでなく、これはケーキだ、という主張を感じる。
「これは……すっごい美味しいですね……」
「でしょう?」
 先輩が得意げな声でそう言った。別に先輩が作っているわけではないのになんでそんなに偉そうなのだろうか。まぁ、そんなことはこの美味しいモンブランの 前ではどうでもいい。私は夢中になって一口、一口、ゆっくりと、でも確実に目の前の皿にあるものを減らしていく。気付けばもうすでに半分になっていて、私 はそこで一息つくことにした。
「そういえば、なんですけど」
「はい?」
 私は私以上にモンブランに食いついていた先輩に話しかけた。先輩は頭上二メートル上くらいから出しているような高い声を出して、私の方を見る。
「どうしましたか?」
 先輩はモンブランから意識を切り離し、私の方を見る。
「どうしてモンブランなんです? いくら秋とはいえ安直すぎやしませんか?」
「随分な物言いですね、安直なんて」
 あはは、とひとしきり笑って、それが落ち着くと先輩は机に頬杖をついてゆっくりと話し始めた。
「あのですね、今なら聞けるかと思ったんですよ」
 唐突だった。そして何を言っているか全くわからなかった。けれど、それはとりあえず後からわかるだろうと私は続きを促した。
「えっともう八ヶ月くらい前になりますよね、僕が前の彼女に振られたのって。覚えてます?」
 私は頷く。
「まぁ、振られてから二週間くらいはご飯食べれなくって……ってこれは話しましたね。置いときましょう。で、その前の彼女の話なんですけどね。流石にこれ だけの時間がたてば少しくらい傷が癒えただろうと思って、リハビリに彼女の好きだった曲を聞いてみようと思ったんですね」
「それでどうしたんです? ていうかそもそもリハビリとか老人ですか、交通事故にでもあったんですか」
「正直なところ言って交通事故と似たようなものですよね……ていうか、そんなに急かさないでくださいな。あと少しもないですから。で、その中にボーカロイドの曲があって。知ってますよね、ボーカロイド」
 最近の高校生の一般教養程度には。
「そうですよね、失敬。で、弱虫モンブランっていう曲があって。それで食べたくなったんですよ、モンブラン。以上です」
「やっぱり安直じゃないですか、先輩」
 即答した。
「ですかねぇ……」
 先輩は少し勢いのない笑いとともに紅茶をすすった。先輩には温度が高かったのか、あつっ、と小さな声で呟いて、すぐにソーサーの上にカップを戻す。
「いずれにしても、安直でもなんでもいいんですよ。少なくとも彼女が好きであっただろう曲を聞ける程度には回復してるんですから」
「あの時の先輩は本当に見てられませんでしたからね。それは何よりです」
「ご迷惑をお掛けしました」
 そう言って先輩は私に頭を下げる。本当にあの時の先輩は見ていられなかった。何を話しかけても意味のある返事もはしないし、大して食事もしていないように見えた。ぼーっとしているかと思うと突然泣き出すし、見ている私がどうにかなりそうだった。
「まぁ、ですね。あくまで日常生活が一応支障なくおくれるレベルになった程度ですけどね。少なくとも街を歩いている最中にいきなりしゃがみこんで泣き出したりはしない程度で」
「どんだけ病んでるんですか」
「そうですね、少なくとも今でも誰かに殺してくれ―、って思いながら日々を過ごしている程度には病んでるかもしれませんよ?」
「今、なんて言いました?」
「えっ?」
 先輩は私の問いかけに驚いたような表情を浮かべている。驚きたいのはこっちだし、女性なのに恐ろしくドスの効いた声が出た自分が若干嫌になった。
「だから、今なんて言いました? って聞いてるんですよ?」
「殺され」
「冗談でもそんなこと言ったら私が殺しますよ。ていうか、先輩は私の事知ってますよね、少なくとも私が高校一年生の時から今まで大体五年半くらいですか?  それくらい仲良くしているくせに私の怒りのポイントまだわからないんですか? ほんとありえないですよ、それってわざとですか、挑発ですか。ほんと帰り ますよ」
 先輩の台詞を途中で遮って、その言葉をかき消す。先輩はきょとんとした表情で、けれどもしっかりとした口調で話を続けた。
「殺されたい、なんて言ったら殺すなんてそれ詭弁も詭弁じゃないですか、死んだら殺すから、みたいな。まぁ、そのあたりは置いておくとしても、冗談で言っ てるわけじゃないんですって。もちろん、後輩さんの怒るポイントなんてよーくわかってますけども。それでも本当に殺されたいんですよ、僕。それもできるだ け理不尽で凄惨なのがいいんです。自分で死ぬ勇気はないから」
「本気で言っているなら余計たちが悪いですよ? 死にたい、まだ理解はできます。勿論止めますし、いいこととは思いませんけど。けど、なんで殺されたいんですか」
「だから自分で死ぬのは流石に怖いからですよ、今も言ったじゃないですか」
 そう言って先輩は大きな声で、ハハハ、と笑う。話している時間も、場所も、内容も、完全にそういうふうに大きな口を開けて楽しそうに笑う場面では断じて無いのに、そうやって笑う先輩になんだか無性に苛ついた。その感情が声に乗って思わず語気が強くなった言葉が飛び出す。
「じゃあ殺されたいにしてもなんで理不尽な方がいいんですか、なんでですか?」
「だってそうしたら、少しでも彼女の記憶に残るかもしれないでしょう? ニュースにもなるし、思い出したようにテレビ番組でやるかもしれないですしね」
 私の強い口調を意に介さずに笑いながら先輩はそう言った。何を言ってるんだろうかこの人は。まったく、訳がわからない。しばらく言葉を失ってしまい、目 の前のモンブランにも手が伸ばせなくなる。そんな様子も全く気にしていない先輩に渡しはまた腹がたったけれど、それをもう言葉にする元気はなかった。でき たのはこう呟くことだけ。
「先輩、変わりましたね、少し」
「変わったんじゃないですよ。元に戻っただけです」
 私がやっと絞り出したその言葉に、けれども先輩はすぐにそう返してくる。じゃあ、私が今まで見てきた先輩は何だったのか。嘘だっただろうか。私も楽しかった。多分先輩も楽しかったであろう、あの場所で、あの時間を一緒に過ごした先輩は今はどこにもいないのだろうか。
 私は何も言えなくなって、けれど、残すわけにもいかなかったので、ただただ目の前の物体を口の中に運ぶことに専念する。さっきまではあんなに美味しく感 じていた濃厚な栗の甘さが、今は喉にへばりつく粘っこいものにしか感じられず、食べるのにとても苦労した。先輩はそんな私の様子に気づいているのか気づい ていないのか知らないけれど、さっさとモンブランを食べ終わって紅茶をすすっている。時間がたって温度が下がったのか、先輩はあついと口に出すことも無く それを飲み進めていく。
 ようやく私がモンブランを食べ終えたことには紅茶は温かかった面影すら残さないほどに冷めていて、私はそれを一息に飲み干す。
「そろそろ、出ましょうか。並んでるみたいですし。会計はもちろん私が出しますから」
 その声につられて店舗の外に目をやると、確かに何人かが店舗の外に並んでいる姿が見える。私はそれに返事もせずに黙って鞄を持って店舗の外へと出て行く。
 先輩はそれから何十秒もしないうちに私の横に来て、これからどうしますか? と訪ねてくる。
「帰ります」
 首を激しく振って出した私の声は自分が想像していた以上に不機嫌な声で、こんな声が自分に出せることに内心驚いていた。
「そうですか」
 私がさっさと駅の方面に歩き出す横に先輩は同じ速度で横にしっかりと着いてくる。すれ違う人達の笑い声が嫌に耳について叫びだして、その場から逃げ出したくなる。
 そうして、急ぎ足で歩いて行く私の耳に突然言葉が入ってくる。
「すいませんでした」
 それは先輩の謝罪の声だった。
「何がですか」
 私は先ほどより不機嫌な声でそう聞き返す。
「殺されたい、とか言ってしまって。君は気に入らないでしょうけれど、そう思っているのは事実なんですけどね。言うつもりなんてなかったんですよ。怒るだ ろうと思ってたし。そもそも君の気持ちなんて全然考えてなかったですよね。君があんなこと言って笑ってくれるはずもないのは、君の事情を考えれば至極当然 の事だったんですけれど。でも、なんででしょうね、後輩さんの前だと、もしかすると僕は甘えてしまっているのかもしれませんね、きっと何を言っても最後に は許してくれるだろうって。僕のことを受け止めてくれるだろうって。重ね重ねすいません」
 甘えてしまっている。その言葉に私のさっきまでの不機嫌な心がどこかに消え去り、許してあげよう、という気持ちが芽を出してくる。
 そういうふうに言われてしまったからにはいつまでも不機嫌でいるわけにもいかないだろう。殺されたい、なんて言葉は確かに不快だったけれども、それが先 輩が甘えた結果ならば、許してあげなくちゃいけない、と思う。先輩だって時には甘えたい時もあるだろう。そうやって甘えたい、と思った人間が私なのだ。確 かに先輩は私の気持ちなんて一切考えていなかったのだろうけれど、精神がしっかりしていない時にそこまで求めるのはちょっとかわいそうだ。しかもそのこと にきちんと気づいて、謝ってきているのなら、それはもう仕方ない。許すより他はない。
「そうですか」
 けれど、すぐに不機嫌な姿勢を崩してしまったら、流石にちょろいなんて思われてしまうかもしれない。そう思った私は素っ気なくそう言ったきり、また黙っ て歩いていく。先輩もそれ以上何かを言葉にすることはない。来た時にわかってはいたけれど、やっぱりお店から駅までの距離はあっという間で、それからの沈 黙の時間はそれほど長くは感じなかった。改札の前で先輩は私にこれからどうするか、なんていう視線を改めて向けてきたけれど、私はゆっくりと首を横に振っ た。さっきよりは柔らかくできたと思う。そうですか、と言って振り返って改札の中へと消えていこうとする先輩を、けれど首を振った私はそこで小さく先輩を 呼び止める。
「先輩」
「なんでしょうか?」
 どうせ聞こえないだろう。そう思って出した小さい声は地獄耳の先輩に届いたらしく、私に向き直って、顔を覗きこんでくる。何か、何かを言わなくちゃいけないのに、何も言葉が出てこない。それでも先輩はニコニコしながら私の次の言葉を待っている。
「今日の」
 ようやくそうやって言葉に出したけれど、また私はなんて言えばいいのかわからなくなって黙りこんでしまう。
「今日の?」
 そうやって優しく促してくれる先輩はやっぱり笑っていて、その顔を見てパンク寸前だった私の頭が少し落ち着いて、考える余裕が出てくる。そして、安堵の 気持ちが芽生えてきた。その笑顔は私が知っている、昔の先輩と何一つ変わらない優しい笑顔だったから。そう思って、私はようやく何を言えばいいのか、整理 がついて、それを口に出すことにした。
「今日のモンブラン、口に合いませんでした。甘すぎです。あんなの」
「えっ、最初美味しいって言ってたじゃないですか」
「お店の中でまずいなんて言えるわけ無いでしょう。まぁ、とにかく私の口に合いませんでした」
「なるほど」
「だから、次に食べに行くモンブランは私の口に合う素晴らしいモンブランを所望します。それが美味しければ許してあげます」
「何を許してくれるんですか?」
「……ばかっ、今日の遅刻のことですっ!」
「そうですか、じゃあ次のお店は本当に気合を入れて探さないといけないですね」
 そう言って先輩はまたハハハ、と大きな声を出して笑った。先輩に私が考えていたことが全部バレているんじゃないか、と思って照れ隠しに先輩に背を向けて しまう。やっぱり後輩さんは優しいですね。ありがとうございます。これだから……nですよ。私の背中に先輩は言葉を投げかける。聞き取れなかった部分を聞 き返そうとして振り返ると、先輩はもう改札の中から手を振っていた。しかも全力で。私は少し恥ずかしいけれど、待ち合わせの時よりも大きく手を振り返し て、先輩の姿が見えなくなるまで見送った。
 そうして先輩の姿が見えなくなってからは、私はその場に立ち尽くしてしまう。このどうしようもない自分に気づいて、呆れて、でも嬉しくて。感情がないまぜになってどれに傾けばいいかわからなくて。その場から一歩踏みだそう、という気持ちになれなかったのだ。
 そう、私は気づいてしまったのだ。悔しいことに。あの優しい笑顔を見て。
 先輩のあんな発言を聞いていつも以上に不機嫌になったのも、最後にはなんだかんだ許してしまうのも、急な誘いでも断らないのも、甘えてしまっているなんて言葉だけで機嫌があっという間に直ってしまうのも。その原因を。
 それは言葉にしてしまうならば、音で二音、漢字で一文字。けれども私が先輩に抱いている感情はたったそれだけで表せる。

             恋

 そう、私は先輩に恋をしていたのだ。出会った時から、今までずっと。
 その感情は初めてそれを自覚する私にはあまりにも甘すぎた。それこそ今日食べたモンブランよりもずっと。
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