For me,for you

 僕が人生を不条理だと思ったのはずっと好きだったクラスメイトが学校の屋上から落ちてくるのを目の前で見てしまった時だ。本当に僕の眼前すれすれを彼女は通り過ぎ、僕がそのことを知覚する前にゴスっ、バキっと音を立ててこの世からバイバイした。僕の視界に残っていたのは彼女のほっとするような笑顔だけ。
 その瞬間に僕に生きてる価値はもうなくなってしまったような気がした。自分が好きだと思った人間を守れないでどうして生きている価値があるのか。そんなものはないに決まっている。高校三年生でそんなことを悟るのは早いかもしれないが、人生というものは早すぎて早いことはない、と古典の山下が言っていたのがなんとなしに頭に残っていた。まぁ、他人より早いから、と言っても特段困ることはない、と思う。
 そんなわけで生きている価値がない、ということはつまり死んだほうが社会の役に立つのだが、流石に僕がここで死んだら通っている高校の評判は地まで落ちるだろうし、一応両親を悲しませることになる。わざわざカウンセリングなんてものもしてくれた人の尊厳も傷つけるような気もする。だからとりあえず他人に迷惑をかけないで死ねるまでは生きることにした、死んだように。そこにいてもいなくても変わらないように。隠れて生きよ、なんて言った哲学者に習って(まぁ、きっと意味は全然違うけど)。
 だから、それから七年たった今、困っている。
 僕よりも頭二つ分くらい小さいこの少女に。僕に見下ろされながらも全くその視線の鋭さが衰えないその少女に。僕はこう言われたのだ。
「私の生きる意味になりなさい」



「ねぇ、七宮君」
 放課後、図書室だった。夕焼けが差し込み、室内を優しく橙に染めている。夜という暗闇へと向かう世界の色だ。そんな室内と同じ色に染まった神谷桜は僕に声をかけてきた。彼女に声をかけられることは初めてだったかもしれない。そんな僕は内心ドキドキしながらなるべく素っ気なく「どうしたの」と返した。
「神様って、いると思う?」
 何故彼女はそんなことを、しかも僕に聞いてきたのか、と思った。
「どうして?」
 こんなことを聞くのは自分は会話下手ですと自己紹介しているようなものなのはわかっていた。好意を寄せる相手に対してこのような返事をしてしまうのは思春期だからか、こういう性格だからなのかわからない。けれど神谷桜はそんなことを意に介さずに返事をしてくれた。



「どうして? 何故僕なんだ?」
 そう聞いてしまって僕は七年経っても成長していないことに気づく。あれは思春期のせいじゃなくて性格のせいだったんだろう、と嘆息する。目の前の少女は即答した。
「あなたがそこにいたから。理由なんて、ない」
「本当に?」
「嘘なんかついても仕方ないでしょう?」
「そりゃそうだ」
「返事は?」
「……その前に僕の話を聞いてくれる? 突然現れた君が何者か、なんて聞かない。返事だってきちんとする。だから、その前に」
「……すぐ終わるかしら?」
「わからない。どれくらいかかるかわからない。すぐ終わるかもしれないけど、一日中話しても終わらないかもしれない。でも話さないときっと君の望みに応えることはできないから」
「……わかったわ。好きなだけ、話しなさい」
「ありがとう」
 ゆっくりと息をつきながら、上を見る。そうして、緊張をほぐしていく。僕と少女を深夜の暗闇の中に映し出す街灯の灯りが眩しい。ふと立ち寄った公園でこんなことを、名前も知らない少女に話すとは思ってもいなかった。牧師でも、恋人でも、カウンセラーでも、なんでもない、この少女に。悔恨の記憶を。


「聞いてみたかったから。ただ、それだけ」
「そっか、神様、ねぇ……」
 正直、聞いてみたかったから、なんて理由で素直に答えられるものか、とも思いはしたが、せっかくの会話のチャンスを逃す理由もない。だからと言ってそこから会話を広げることのできるスキルもないし、神谷桜が望んでいる答えをズバリと言い当てる自信もなかった僕は正直に思ったことを言うことにした。
「あー、わりと神話とかが好きで、結構読むんだけど。ギリシャ神話とかさ。で、そこに出てくる神様ってわりと人間臭いんだよね。ゼウスとかなんちゃらとか。うん、まぁ、そういうわけで思うんだけど、俺は神様なんていないんじゃないかな、って思うんだよね。神様って昔の人が言ってるだけでただの人間なんじゃないかな、って思うんだよ。ほら、人間って死ぬと神格化するって言うじゃん? あれがもんのすごいことになってるだけで。別に神様なんかじゃなくて。星座なんてのも作り話で。信仰なんて人間の虚構と妄想の肥大化と思い込みとかその他諸々で創りだされているだけで……って言ったらさる筋から怒られそうだけどね。とにかく、神様、なんてものはいないと思うな、俺は」
 最後は少しだけ格好をつけて俺は、と主張してしまったことを押し付けがましくなってしまっただろうか、と少しだけ後悔する。彼女は何かを考えている様子で、僕は彼女が口を開くのを待っていた。その間に鳴っている音は衣擦れのものくらいで、ゆっくり、ゆっくりと少しずつ日は暮れていくことだけが時間が過ぎていくことを証明していた。そうして日がほとんど暮れかかってオレンジ色に染まっていた図書室が黒くなりかけた時、神谷桜は言葉を発する。
「そしたら」
 彼女はそこで発した言葉を切る。まるで覚悟を決めるかのように。そうして、続ける。
「神様がいないなら、人を救ってくれるのは人だけってことかな」
 彼女は続ける。せきを切った言葉はとどまるところを知らない。
「神様みたいな存在が悪いやつをやっつけて人を救ってくれるなんてことはないのかな。ひどく思い悩んでいる状況に突然降ってくる奇跡とかはないのかな。どんなひどい状況でも誰かが救ってくれるのを待ってくれるしかないのかな。見て見ぬふりばかりしている人間が。時間が解決してくれるのを待っているしかないのかな。周りの人間が救ってくれるのを待っているしかないのかな。ねぇ、どう思う。七宮くん。教えて。誰かいつか助けてくれるのかな。私のことを助けてくれるのかな、ねぇ、ねぇ、ねぇ、教えて? ねぇ、ねぇ」
 そういう彼女は明らかに異常だった。僕ではない何かにしがみつくように、けれどしっかりと僕の右手を握りこむ。ほんの少しの温かみを感じる。けれど握る力が強すぎて爪が肉に食い込む。鋭い痛みが走った。
「か、神谷さん落ち着いて」
「ねぇ、答えて、教えて? ねぇ、ねぇ、ねぇ、逃げないでよ。教えてくれないの、私を放り出して逃げるの? 私のこと好きなんじゃないの? 中学校の頃に桜田くんが教えてくれたよ、私のこと小学校から好きだって。教えてよ、ねぇ、逃げないでよ逃げないでよ、ひどいよ、ひどいよ」
 僕は彼女の様子に及び腰になるが、彼女はそんな僕を逃さまいと更に僕を強くつかむ。更に爪が食い込み、彼女の手の温かみとは違う暖かさが僕の手を伝う。それは僕から中から流れ出た暖かさ、つまり血が流れていて。神谷桜もそのことに気づいたらしく、なにかにとりつかれていたようなさっきまでの彼女は身を潜め、どこから取り出したのか僕の傷口にハンカチを当てている。
「ご、ごめんね、ごめんね、ほんとごめん、急に周りが見えなくなっちゃって」
「い、いや大丈夫だからそんなに謝らなくてもいいよ」
 僕の手から流れる血液は神谷桜の白いハンカチを赤く染めていく。気付けば図書室の中はすっかり暗くなっており、目の前にいる神谷がどんな顔をしているかどうかさえ見えない。聞こえるのはお互いの呼吸音。ただただ沈黙が僕と神谷の間に横たわっている。お互いに何をすべきか、何をしないべきかさえもわからない。それでも、時間がたっても、時間がたっても僕から流れ出る血液は止まらない。ほんの少しの切り傷でしかないようなのに。この場所に僕を縛り付けるかのように、ゆっくりと、少しづつ、でも確実に流れ続ける。このまま永遠にこの沈黙が続くのか、そう思っていた所で校内放送の音楽が流れてきた。帰宅部の僕が滅多に聞くことのないそれは最終下校時刻を告げるもので、その放送が流れると共にどちらともなく立ち上がった。
「七宮くん、本当にごめんね」
 校舎から出て、校門の所で神谷桜はそう言った。その切なそうな顔は僕が知っている彼女で、少しだけ安心した。
「ほんとに、気にしなくても大丈夫だから。それより、神谷さんがなにか悩みがあるなら絶対相談に乗るから。僕はヒーローでも神様でもなんでもないけどきっと力になるから」
「ふふ、ありがとね。七宮くん。そんなこと言ってくれるだけでうれしいよ。でもなんでもないから。また明日、ね」
「……そっか。でも本当に、なにか話す気になったら、話して。絶対に」
「そんなに私のことなんて気にしなくていいのに」
 彼女はふふふ、と笑って僕に背中を向けた。
「じゃあ、ね。また明日。本当にありがとう」
「うん、また明日。気をつけてね」
 そうして僕は神谷桜と別れる。また明日。そう言って。彼女の儚い、吹けば飛ぶような、愛らしい笑顔をもう一度見れると信じて。
 次の日。確かに僕は彼女と再会する。
 屋上から落ちてきた彼女と。

「僕は彼女を救うことが出来なかったんだ……!」
 僕は少女に全てを話してしまった。本当にすべてを。そうする理由も言われもないのに。何故だかそれが必然なような気がして。
「僕は何故彼女が、神谷さんが死んだのかわからない。もしかしたら自殺じゃなかったのかもしれない。誰かに殺されたのかもしれない。でも、僕にはどうしてもそうは思えない」
 そこで自分が泣いていることに気づいた。今の今まで気づかなかったけど、僕は泣いている。
「彼女は、きっと自分で死を選んだんだ。理由は今でもわからないけど。イジメられていたのかもしれない。今の僕みたいに生きる理由がなくなったのかもしれない。両親が不仲だったのかもしれない。僕なんかが想像も及ばないような環境だったのかもしれない。でも、それでも。僕は彼女を守れなかった。何も出来なかった。彼女を好きだと思っていたのに。僕は彼女の何も知らなかったんだ! あの時、神様はいるって言っていたら、彼女は生きていたかもしれない。もし、僕が追いかけていれば彼女は生きていたかもしれない。もし、彼女のもっと深く踏み込んでいれば彼女は生きていたかもしれない。でも僕はそれをしなかった。いや、できなかったんだ。僕は、僕は、僕は。僕は本当に彼女を見ていただけだったんだ。何も知らない、それなのに僕は彼女のことを好きだと言い張っていたんだ。それは本当の愛なのか? わからない、わからないんだ。でも、彼女が死んだとわかったときの僕の喪失感は本物で。それはきっと彼女のことを大切に思っていたからで。じゃあそんな、好きな人を守れない僕になんて生きる意味はないんだよ。だから、だから、きっと僕は君の生きる意味になれるなんて思えない。生きる意味がない僕に、大切な人も守れない僕に、救えない僕に、誰かの生きる意味なんてなれるなんて思えないんだ。だから、ごめん。君の願いには応えることはできない。ごめん」
 僕は、名前も知らない少女に頭を下げる。深く、深く。神谷桜にも謝るように。
「ふーん……」
 少女はつぶやき、僕を見下ろした状態で後ろ手を組んでいるようだった。僕はそのまま動かない。彼女も動かない。どうしたものか、そろそろ頭を上げてみようか、と思った瞬間左腕に強い衝撃を受けて倒れこむ。少女が華麗に右足で蹴りを決めたとわかったのは、僕がなんとかそちらの方を向いてからだった。
「ばっっっっっっっかじゃないのあんた! 本当に、バカよ、大バカ!」
 少女はようやく立て直しかけた体勢をもう一度崩すためか、僕のネクタイを掴んで引き寄せる。その力は腑抜けの僕を揺り動かすには十分な強さだった。少女の顔が目の前にある。
「あのね、あんたみたいな人間が人を救えると思ってるの? 自惚れるな! もしもしもしもしって電話じゃないのよ? あんたじゃあそのもしを行動することができていたら彼女は絶対に助かっていたの? そのことは証明できるの? あなたが彼女の救いに慣れたかなんて誰にわかるの? そんなの他人にしかわからないじゃない。人の気持ちなんてわかるわけないのよ! それにあんたがぐちぐちぐちぐち、もしできていたら、ってことをヘタレのあんたが万が一、いや、億が一、できていたとしても彼女が死ぬのは既定事項だったかもしれないし、もししていたら余計ひどい死に方をしたかもしれないんじゃないの。それにあんたの見た彼女の最期の顔は笑っていたんでしょ? それは幸せだったんじゃないの? 死ぬことを決めていたその子が最後にあなたの話を聞いて幸せに逝ったのかもしれないでしょ、あんたがしたことによって彼女が死んだのかも、なんて考えたら終わりなんてないわよ! 遺書はあったの? 彼女の遺志は、思いは、確認したの? してないでしょ? なら全部自分の都合のいいように捉えていいのよ。苦しむのはいつも残された人間なんだから。他人の事なんて気にせずに逝った女のことなんか、生きているという決断をしたあんたが悩まされることなんてない。
 だから。あんたは。悪くない。何も悪いことなんかしていない」
 彼女はそう言い切り、僕を引っ張っていたネクタイから手を話し僕をまっすぐ立たせる。彼女は僕のことを見上げているのに、気分はまるで見下ろされているみたいで、なんだか情けなかった。
「それでも、僕は……」
 でも、やっぱり、僕はそう思っても口に出してしまう。彼女が死んだことは事実で、僕の目の前に落ちてきたことも事実で、また明日といったのも事実で。
「僕は、そんなに簡単に割り切れない……無理なんだよ……」
 僕はそう言ってその場に膝をつく。涙が止まらなくて、止まらなくて。気付けばすでに空は白んでいて、自分の涙がむき出しの地面に染みを作っていく。情けない。ほんとうに情けない。情けなくて涙が止まらない。
「顔を、上げなさい。なんでもいいから。泣いていてもいいから」
 少女は僕にそう言う。僕がそのままでいると彼女は「いいから早く!」そう叫んだ。僕はその語気に負けて涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を彼女に向けてあげる。ちょうど太陽が彼女の後ろから昇っているようで眩しかった。少女の表情はわからない。
「あんた、ほんとうに情けないわね」
 それは自分で一番わかっている。
「本当に、情けないわ。でも、私もあなたを選んだ責任がある。あなたのそんな過去は知らなかったから。誰でも良かったのに、わざわざあなたを選んでしまったから。だから、最初で最後の優しさをあなたにあげる。救いの手を差し伸べてあげる。あなたがそれを受け取るかどうかは自由だけど。それでも差し伸べてあげるから。よく、聞きなさい」
 少女はそこで一瞬溜めを作った。やっぱり表情はわからないけど、僕に笑いかけているような気がしてそのまま目が離せなくなる。
「あなたは私の生きる理由になりなさい。そのかわり私があなたの生きる理由になってあげるから」
 そう言って少女は僕に右手を差し出した。少女の言う、救いの手。本当に小さな手。
 僕は、叫びたくて、泣き出したくて、走り出したくて、けれどそのどれもしなかった。
 ただ、ゆっくりと少女の小さな手を自分の右手で包み込む。
 僕以外の暖かさが、そこにはあった。
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